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会長のつぶやき

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第二十八回(2020.6.4)NEW

新型コロナウイルスの蔓延まんえんにより、私たちの生活は一変しました。

その恐怖と不自由さの中でも懸命に闘い、生きるための努力を尽くしている人々の姿が、連日報ぜられています。その尊い姿に励まされながら、日々を過ごさせていただいています。

私の家にどういう経緯けいいで伝わったのかわかりませんが、石の小さなお地蔵様がおられます。庭石の上に安置しておいたのですが、気づいた方がお賽銭をあげてお参りをしていかれるのです。

ある時ふと気づかされたのですが、よく見るとお地蔵さまは合掌しておられるのです。普段は、恥ずかしながらお賽銭の方ばかりに気をとられ、お地蔵様にはあまり関心を示さず、その存在すら忘れているこの私に向かって、両の手を合わせ静かに微笑ほほえみをたたえながら拝んでおられるのです。拝む人も、気づかずに通り過ぎていく人も、いつも拝んでくださっているのです。

でも、拝まれているのは”私”ではありません。私が内包ないほうする”尊さ”に礼拝して下さっているのでしょう。私の自覚を超えた、私の尊さが拝まれていたのでしょう。拝まれて知らされる私の尊さがあったということです。拝み拝まれるということによって、尊い者同士であったと知らされるのです。

さとり」とは、自分を含めた一切の尊さに目覚めることかもしれません。全ての存在には意味があり、価値があり、そしてつながり関係している故に、あらゆる存在や現象が私を支え成り立たせ、同時に私も何かを支え成り立たせている大事な存在なのだ、と気づいていくということなのでしょう。

その尊い私は、私を尊く生きているでしょうか?

他の命の尊さが見えず、私の都合のために他を利用しおとしめていく。そのことによって、さらに私自身の尊さが見えなくなっているのではないか。それを感じる力を「宗教心」というのでしょう。宗教(真実の教え)によってそういう私に気づき、その恥ずかしい私が、尊い存在として願われ支えられていると知らされるのです。そこに感謝と喜びと痛みが生まれます。その上で、たとえそれがささやかであっても、自らに与えられた環境条件の中で、できることを尽くしていく生活が始まるのでしょう。

尊さを見失ったとき、いじめ、差別、虐待、排除のような、他者の人間性を見失う姿になります。その他者を非人間化した時、自分自身が人間性を失い、非人間化してしまうのです。戦も争も殺も傷もそこから始まります。

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会長武藤淳一

【生年月日】

1942年(昭和17年)6月15日

【住まい】

福島県会津若松市

【家族構成】

妻、長男夫婦、孫2人の6人家族

【本職】

寺院住職

【経歴】

大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。

【住職として伝えたいこと】

「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること

【仕事をする上で気をつけていること】

丁寧(心を込めて親切に対応すること)

【座右の銘】

身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)

意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく

【尊敬する人】

親鸞

【最近読んだ本】

天地明察

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