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過去のつぶやき

第十九回(2018.9.7) 

「少子高齢化社会」ということが言われて久しいのですが、その少ない子供の世界に異変が起きているようです。子供の世界といってもそれは常に「大人社会」の投影なのですが、むしろ「人間」そのものの生き方に異変が起きているといえるように思えます。

教育も科学も改治も、「人間性」を(はぐく)むことよりも合理性を基とした「学力」「経済」「効率」を優先した方向に進められ、私たちは「より便利に・より快適に」を合言葉として生きてきました。そして、今私たちの暮らしは、一見衣・食・住が満ち足りているように見えますが、本当に幸せを感じて生きているのでしょうか。

「衣食足りて礼節(礼儀と節度)を知る」(衣服や食物は生活の根本、それが満たされることにより心にゆとりが生まれ、礼節を知り、人間らしく幸せに生きることができる)という言葉がありますが、どうも今の日本は、その逆をいっているように感じられます。

眼を大きく見開くだけがよく見ることではないのです。眼を閉じることでしか見えないものがあります。懸命に耳を傾け必死で聞こうとするとき、また物体の表面のほんの(わず)かな凹凸(おうとつ)を指先で知ろうとするとき、つまり集中しようとするときには思わず眼を閉じます。

私たちの眼は外向きにできているので、自分の外はよく見えているように思っています。しかし、見えたつもりのその外は、編集された虚像(きょぞう)であることが多く、直接体験として見ていることはまれなのではないでしょうか。

また、鏡に映らない自分の姿はどうやって見、その姿を成長させていくのでしょうか。

私たちは、自分の本当の姿ー怒ったり、悪口を言ったりしている顔、()()(くさ)れたり、虐待やいじめをしている姿や態度、自分のすぐ近くにある背中など、生涯見ることができないのです。

やはり人間には、自分というものを隅々(すみずみ)まで映し出してくれる鏡≪真実の教え≫がなくてはならないのでしょう。

自分の本当の姿を知ったとき、他人の不都合を一方的に攻めるだけでなく、自分の姿を重ね合わせて、それなりの物言いができるはずです。

そういう指摘なら、いわれた方も受け容れやすいでしよう。

第十八回(2018.6.14) 

ものごとをプラス・マイナスに分けて、マイナスをどうプラスに受けとめ、解釈して転じるかという「プラス思考」がもてはやされているようです。

もともと西洋と東洋(特に日本)では、ものごとを受けとめる感覚が違っていたようで、明治以降西洋的思考(合理性重視)を受け入れるようになってから変化してきたようです。

西洋には雨か雪のどちらか一方だけで、雨と雪が混じって降る「霙(みぞれ)」という言葉・概念はないのだそうです。

「生死」━これは「しょうじ」と読み、ものごとの成り立ち(必ず変化する)を表す言葉で、執着(しゅうちゃく)する心から生まれる「迷いの世界」を言いますが、今は「せいし」と読み、「生」と「死」を分けて考えるようになりました。「生」は輝かしいプラスで、「死」はマイナスで避けて通りたいと、視界から遠ざけようとする傾向が強まり、「死」から学ぼうとする感覚が薄れてきたように思えます。

いわゆる「プラス思考」━志向ですが、その基準はいつも「その時の私の都合」です。事実は厳然たる事実であって、私にとってのプラス・マイナスの価値は相対的なものでしかありません。辛く悲しいことはマイナスで、楽しく嬉しいことはプラスということではないのです。プラス思考に縛られて、マイナス(に見えること)に価値がないと考えることこそ問題なのです。眼前(がんぜん)の現実をいかにプラスに解釈し直すかに腐心(ふしん)する前に、与えられた事実としてそのまま引き受け、そこから出発するのです。

一見マイナスに見えることから、私たちはいかに多くのことを教わり学ぶか。けがや病気をしてはじめて気がつくこと、大切な人を失ってはじめて目を覚まさせられること、高齢になってつくづく感じることなどがあるのでしょう。

実は私たちは互いに不完全同士ということで平等なのです。わが身に起こっていることが、自分にとって好ましくなく感じられることがあります。しかし私たちには、縁あってこの身に受けた現実は誰も代わってくれる者はいないのです。いないというより、代わることそのことがあり得ないことなのです。

たとえその時、辛く悲しいことであっても、本気で自分のこととして引き受け、しっかりと現実に立ち向かおうとするとき、勇気や元気が出てくるのです。出来ることは惜しまずやりましょう。本当にできないことはできないと認めて、くよくよ悩まず、手伝ってもらいましょう。

第十七回(2018.4.16) 

今、私たちを取り巻く世界は、“共に生きあう”ということからはかけ離れた、人と人とが傷つけあう、底の知れない深い悲しみ、苦しみに満ちた世界を造り出しています。

国や一部の人間が、武力を背景に「利」を得ようとする傾向が強まり、私たちの国も、その流れに巻き込まれようとしています。

国の歩むべき方向を定める最高機関であるべき国会でも、国を動かすリーダーたる人々が、醜態(しゅうたい)をさらしながら()じることのない姿は、何ともつらく悲しい思いにさせられます。

次の時代を受け継ぐべき若者や子供たちに、どんな影響を及ぼすのか不安になります。

世の中には、殺されていい人なんて一人もいないし、人を殺す権利を持つ人もいません。いじめられるにふさわしい人もいなければ、いじめが許される人もいないのです。

どの人も皆尊い。その尊さをどんなことがあっても(おか)してはならないし、その人が尊い人生を尊く生きようとすることを(さまた)げてはならないということです。

他人の人間性を奪い、差別し、無視していい気になっているその姿そのものが人間性を失っている姿です。極めて情けない姿です。

他の人の尊さを認めるということで、私たち自身が尊いと呼ばれるにふさわしい人間に成ることができます。人間性を回復することができます。

他の人間性を奪えば奪うほど、私自身が人間でなくなっていく。
そんなことを教えてくれる教えに皆が出会ってほしいと願わずにはいられません。そして、自分の尊さを裏切らない自分でありたいと思います。

第十六回新年度会長訓示(4.2実施)の要旨(2018.4.4) 

いよいよ新年度の幕開けです。

本会は、今年度の基本方針にありますとおり、昭和23年若松市民生事業助成会として発足し、今年で70周年を迎えます。しかし、現在の社協が置かれている立場は非常に重い物があると考えています。

世の中がますます激しく早く変化する中で、どのようにしたら地域社会の福祉のニーズ、どういうことが必要なのかを捉えていかなければならないと思います。

今年度は新たな事業を展開します。3年目になる地域福祉活動計画、他各計画の内容を十分に吟味し、精査し、地域の福祉の発展のために十分な成果が上げられますよう力を尽くしてください。

また、職員同士のつながりをなお一層密にし、お互いに切磋しながら事業を展開していけますよう、本年度もよろしくお願いします。

第十五回(2018.2.9)

最近、他人と上手にコミュニケーションがとれない人が増えているといわれています。「対人恐怖症」は近代日本人の特徴的な心の病で、明治時代以前にはほとんどなかったそうです。

ところが、近年この病も少なくなり、「醜形(しゅうけい)恐怖」(自分の顔や身体が醜いと思い込む)、「自己(しゅう)恐怖」(自分は臭い、だから人に嫌われている)、「食行動異常」(自分の体型がスリムになりたい)といった外見的な姿かたちの悩みへとすり替わっているのだそうです。

他人に愛されたい、受け容れられたいという幼稚で強迫的な願望と、現実に自分を抑制し、あるいは他人に合わせたり、仲良くできない自信のなさから、うまく対人関係がもてないのは、自分の人間性や性格の問題ではなく、外形的欠点(実際は欠点ではないのだが)のせいにしてしまう。だから、顔や身体の美醜(びしゅう)を強調する情報がメディアに氾濫するのです。ともすれば現代人は、テレビや雑誌など視覚中心の外見の情報にとらわれ、自分自身の内面を見る能力を奪われ、見る努力を失い、内面への関心は急速に薄らいでいます。

ある青少年に関する調査によると、今一番欲しいものを問われ、性格や能力よりも「美しい顔と身体」と答える子供が多いそうです。見る、見られることばかり気にしているのです。人生は”他人の眼”のためにあるのです。では本当の私はどこにいるのでしょう。私は私自身をどう見ているのでしょうか。

『身、(みずか)らこれを()くるに、(たれ)も代わる者なし』

この私以外に私はいないし、この私の人生以外の人生を送ることもできません。良いも悪いもこれしかないのですから、これで生きていくしかありません。

では、この私に安心して、他人と共に生きる方法はないのでしょうか。長所もあるし欠点もある私です。とても完璧などではありません。しかしそれはそのまま隣人もそうなのです。それぞれ足りないところを持つ者同士なのです。それを認め合って、できることを惜しまずやり、できないことは安心して頼る。そうやって私たちは人間の社会にしているのです。私に安心できると、他人とも安心して付き合えます。自分が自分に成れば、共に生きる世界が開かれてきます。

顔も手も足も身体も、みんな仏さまからの大切な預かりものです。

そのまま、ありのまま。それでいい。失敗もする。失敗したらこの次はちやんとやろうと思うことが大事。無駄な人生はありません。無駄な時間もありません。

丁寧に生きよう。リラックスして、笑顔で声をかけてみよう。

第十四回(2018.1.4)

新年明けましておめでとうございます。

昨年も、市民の皆様方には温かいご支援ご協力を賜り、社協の事業推進にお力添えをいただきましたことに対しまして、改めて御礼を申し上げます。

さて、昨年一年を振り返ってみますと、社会福祉法の改正に伴う新定款の施行により、新たな役割を担う理事、評議員が選任され、社協の経営に携わっていただくことになりました。

また、10月には大幅な組織改革を行い、新しい組織により更なる経営改善に向けた取り組みをスタートしました。

さらに、平成30年5月の「会津若松市ボランティア学園」開校に向けた準備を進めてきました。現在、入学希望者の募集を行っておりますが、この事業が地域福祉の推進に欠かせないボランティアへの関心を高め、より良い活動に役立ってほしいと念願しております。

新しい年を迎え、心を新たにして、役職員一丸となり“挑戦・改革”に取り組んで参りたいと考えておりますので、本年もご支援ご協力をよろしくお願い申し上げます。

結びに、皆様にとってより良い年でありますよう念じまして、新年のご挨拶とさせていただきます。

第十三回(2017.11.1)

「私のわがままは当たり前、他人のわがままは許されない」

ある所で目にした掲示板のことばですが、いろいろなことを考えさせられます。

私たちは、自分のやっている(言っている)日常の行為やことばについては、すべてにちゃんと言い訳があるようです。

「こうこうだから、このくらいのことはさせてもらわないと」「こうするのも仕方がないではないか」などと言ったり思ったりしています。ところが同じことを他人がしているのを見ると「あんなわがままな」「許されない」となってしまいます。

先日、私のお気に入りのグラスが見当たらないので聞いてみると、「あゝあれは洗っていたら“割れて”しまいました」「え、“割って”しまったのか」という会話を交わし、後で苦笑してしまいました。

自分がやると「割れた」、他人だと「割った」ということになります。常に「私には責められるべき何の問題もない」ことにしているようです。

「福は内、鬼は外」と、追い出した鬼が隣の家で何をしようが、「虫おくり」でおくった虫が隣の町で何をしようが、まるでトイレの水を流したら汚物はこの世から消えてなくなるように思って暮らしています。

他人よりも自分の方がいい目にあったときに満足があり、幸福になれると考えています。ですから「他人」とは、いつも私の満足感を満たし、私に優越感を抱かせるための比較対象でしかありません。

こういう私の在り方を見つめ直し、自己にかけられた願いや、私が存在している意味や価値を発見する営みを「宗教」といいます。

そしてその営みによって、他と共に生きることが自らの生きる意欲となるような道が開かれていくことを「救われる」というのです。

第十二回(2017.9.6)

このところ私の勝手な都合により「つぶやき」をちょっとお休みしてしまったこと、申し訳なく思っています。

今年6月15日をもって、私も晴れて後期高齢者の仲間入りをさせてもらいました。ついに未知の分野に足を踏み入れてしまい、戸惑いを覚えながらも改めて自分自身を見つめ直す機会をもらったような気がしています。

運転免許証更新の年にあたり、前回(72歳)に続き2回目の高齢者講習を受けてきました。今回は「認知機能検査」が加わり緊張しながらの受講でしたが、なんとか合格点をもらえてホッとしています。

これからは益々機能の衰えが進みますが、自分の意志で免許証を返納できるか自信がありません。たぶん家族に無理やり取り上げられそうな気がしています。車を手放した高齢者の問題が我がこととして感じられる時期が迫ってきた思いです。

9月18日に開催される会津若松市敬老会の招待状が送られてきました。私も長寿を祝っていただける身になったのかとしみじみ感慨に浸らせてもらいました。

「老人」という言葉が急に身近になり、これから親しくつきあっていかねばと思いを新たにしております。

そんなことを考えていたらなぜか急に、社協の職員さんに介護をお願いする日がそこまで来ているような気がしてきました。その時は何卒よろしくお願いいたします。

第十一回(2017.4.27)

釈尊は「私たち一人ひとりは、どの人も必ず、生まれる目的や意味や価値があって私として生まれてきている」ということを明確に示してくださいました。

それを象徴的に言い表したのがこの「天上(てんじよう)天下(てんげ)唯我(ゆいが)独尊(どくそん)」という言葉です。

「どのような境遇においても、ただ我(ひと)りにして(とうと)し」ですから、「他の人と比べて俺は偉いんだぞ」と言っているのではありません。

私たちが人間に、自分に生まれたことは、他と何ら比べる必要もないほど尊いことです。この世界の中に尊くない人は一人もいない、みんな尊い人として生まれてきている、そのことに気づいてくれよと願いながら説いてくださいました。

他の人の尊さを認めるということで、私たち自身が尊いと呼ばれるにふさわしい人間に成ることができます。人間性を回復することができます。

他人の人間性を奪えば奪うほど、私自身が人間でなくなっていく。そんなことを私たちに教えてくださっているのがこの言葉です。

自分の尊さを裏切らない自分でありたいものです。

※釈尊…仏教を開いた釈迦の尊称

第十回新年度会長訓示(4.3実施)の要旨(2017.4.4)

平成29年度の開始にあたり、一言所感を申し上げます。

おかげ様で、第一次経営改善3ヶ年計画に則りまして、皆様方の努力により、その(じつ)を上げることが出来ました。

私は数字上のことは詳細に述べませんが、確実に単年度収支で黒字決算という大変有難い形が達成されました。これは支出の面での事務事業見直しやコスト削減などもありますが、その中には皆様方の給与のことも含まれていたと思います。

しかし、まだまだ課題を抱えています。今年度からの第二次経営改善3ヶ年計画は、収入の確保による財政基盤の確立と社協本来の地域福祉事業ということを考えていかなければなりません

皆様方の努力に報いる日が1日も早く来るように、さらに力を合わせて取り組んでいかなければならないと思います。

今年度も、新しい目標に向かって挑戦していただきますようお願いいたしまして、私の挨拶と致します。

第九回(2017.2.1)

昔から教育は、知育・徳育・体育から成ると言われていますが、最近では「食育」を加えるよう提唱されているようです。

専門家によると、「キレる人ほどジャンクフード(低栄養価食品)やソフトドリンク類の飲食率が高い。そういうもので満腹にするとまともな食事が摂れない。そこでまた間食をする。二年ほど繰り返すと慢性化して、血糖値が上がった後急降下する低血糖値症候群になる。血糖値が下がったときが問題で、イライラして集中力がなくなる。するとアドレナリンが自然に出てくる。これは暴力ホルモン、闘争ホルモンですから、誰かが注意したりするとキレるようになる。」ということだそうです。

私は常々「食」(命あるものをいただく)は「薬」であり、健康のバロメーターは「快食、快眠、快便」であると思いそのように心がけています。

「食」とは、私たちの命と身心を養い育てて保ち続けるものです。いろいろな「食」が岨囁(そしゃく)され、消化吸収されて私の体と命の一部となります。

食の安定は身心の安定をもたらし、意欲や行動にも大きな影響をおよぼします。出来うる限り偏りのない、旬の食材を食べるよう心がけ、身心を整え、意欲をもって生活や仕事に向き合っていきたいものです。

第八回(2017.1.4)

新年明けましておめでとうございます。

皆様方にはそれぞれに新たな気持ちで新年を迎えられたことと思います。

日頃は、社協の事業に対しまして変わらぬご支援ご協力を賜わっておりますこと、改めてお礼を申し上げます。

さて、26年度より取り組んでまいりました「経営改善3ヶ年計画」も今年度が三年目となり、事業内容の見直しや地域活動への積極的参加など、経営基盤の強化への取り組みを進めてまいりました。おかげさまで相応の成果はみられましたが、経営基盤の安定には至っていないという厳しい状況であることには変わりがありません。

今後もさらに次の三年を目指して新たな取り組みの準備を致して居るところであります。

この度、当社会福祉協議会では、会津若松市が策定いたしました「地域福祉計画」に連動して「地域福祉活動計画」を策定いたしました。

このことについて市民の皆様に周知をはかると共に、活動計画に基づいて、誰もが安心して暮らせる福祉のまちづくりの実現に向けて、「支えあい、助け合い」を基本理念とした取り組みを進めてまいりたいと考えております。

これからも皆様方のご支援をいただきながら福祉事業の推進に努めてまいりたいと思いますので何卒よろしくお願い致します。

最後になりましたが、今年も皆様にとってより充実した年になりますことを念じましてご挨拶とさせていただきます。

第七回(2016.11.10)

いのち、生きる尊さとは!!!

「私は自分で生まれたくて生まれてきたのではない」と言う人がいます。確かにその通りかもしれません。

しかし、私が今、お預かりしているこの「いのち」は、生まれたくて生まれてきたのに違いありません。なぜなら、私は私の計らいで生まれてきたのではないからです。

「いのち」は生まれたいという願いをもって生まれてきたのに、その願いや意味や価値に気づかないだけなのです。

私たちのいのちは、誰かが生んだから誕生したというようなものではないのです。生まれたくて生まれてきたいのちは、まったく迷うことなく生きようとしています。今、この瞬間も、心臓が血液を循環させ、肺が酸素と炭酸ガスを交換し、内臓も神経も筋肉も、生きるという明確な目的のもとにはたらいています。

お腹がすくのも、喉が渇くのも汗が出るのも、みんな私を生かそうと生き生きとはたらいてくださっている証拠です。

そういうことに気づかされますと、何か大きな安心感が生まれてきます。そして、その見えないところではたらくはたらきにのって安心して生き、やがて生きる縁が尽きたときはいのちの故郷へ安心して帰らせていただく、こういう生き方が成就したことを「往生」(生きて往くということで、死ぬことではありません)と言います。

その安心に立ったとき、与えられた現実に怯まず、いのちを燃焼させ、自分のできる限りを尽くす意欲が出てきます。

自分の不完全さに気づき、その私が今さまざまないのちに支えられ、共に現に生きているということ、そしてそのこと自体が尊いのだということに思いが至ると、生きることへの元気が出てきます。

「生まれた意義と生きるよろこび」を見出していきたいものです。

第六回(2016.07.21)

戦後も71年目という年月を経てきましたが、全世界の人々の願いである”平和の世”が、逆にどんどん遠ざかっていく方向に進んでいくのは何故なのでしょうか?

広島の平和記念公園の石碑には、全世界に発信されたメッセージとして、「…あやまちは二度とくり返しません」と刻まれています。人間という生き物の悲しい(さが)でしょうか。平和を願う者同士が、意見の対立で(いさか)いを起こしてしまう、何とも切ない現実があります。

お経の中に「共命鳥(ぐみょうちょう)」の話が出ています。昔インドにいたとされる鳥で、鳴き声がとても美しいことで知られていました。姿も大変美しく、出会った者はその声と姿の美しさを絶賛したそうです。ただこの鳥は、胴体は一つですが頭が二つありました。

ある時、この二つの頭(仮にAとBとします)が、口論となりました。その頃からAは「みんな美しいと褒めてくれるが、その褒め言葉はいつも半分こで面白くない。みんなの注目を私一人に集めたい。そのためにはBがいなければいいのに」。その思いが高じてAはBに毒の実を食べさせてしまいます。ところが胴体は一つですから、Bが食べた毒でA自身も命を失うことになってしまいました。それを仏様が救いとってお浄土に放たれたということです。

私たちの命は、(じつ)はすべてが繋がっているのです。言い換えると、私たちは同じ命を分け合って生きているのです。ですから、繋がっている命同士が争うと、命全体が(そこ)なわれてしまうのです。

他を責めたり、憎んだりしたあげく、他を亡き者にして自らの思いを叶えようとする私たちの営みそのものが、繋がっている命全てを損なうことになるという、そういう深い懺悔(ざんげ)がそこにはあります。

私さえ、私の家族さえ、私の会社さえ、わが民族さえという、私達のエゴの姿を言い当てていると感じさせられました。

第五回(2016.04.18)

若い人たちの、いじめ、自殺、殺人、薬物乱用、窃盗、公金横領、虐待、詐欺、誘拐監禁、賭博と実に多種多様にわたる出来事に、ただただ呆れるばかりで心が痛みます。

現代社会の一つの特徴は、科学が証明する事実の方により重きが置かれ、人間の価値が数字で表されるということがあります。いつの頃か私たちは、合理性の追求の中で「家庭」「家族」「生活」という、人間を育てる基本の場を見失ってしまったように思えます。

人という生き物は、生活の中で「拝む」という習慣を身につけていただき、人間としての感覚を育てられ、成長していく存在です。「拝む」ということの対象は「ほとけ様」で、すべての命を生み出し、育て、支え続ける<はたらき>そのもののことです。その<はたらき>に出会うことによって、人間として”してはならないこと”、”しなければならないこと”を的確に判断する感覚を身につけさせていただいてきたのです。そういう「拝む場」を取り戻すことが非常に大事なことだと思います。

現代人は、ものごとを理屈で考え、対処しようとする傾向がありますが、実は本当に大事なことは、理屈ではなく理屈を超えたところにあるということをもう一度思い返してみなければならないと強く感じています。

第四回 新年度会長訓示(4.1実施)の要旨(2016.04.04)

当社会福祉協議会は経営改善について、3年を一つの区切りとして取り組んでまいりました。そして少しずつ、その実を上げつつあります。

今年度は3年目にあたります。これで一区切り終わったということではなくて、次の新しい3年の計画に向けての準備期間も兼ねております。良い時ほど、落とし穴が待っているというようなこともありますので、締めくくりの年であると同時に、次の新しい3年間に向けての出発という気持ちで気を引き締めて取り組んで頂きたいと思います。

本会は会津若松市民のご協力によって成り立っています。ですから、地域の福祉に私達はしっかり取り組んでいくことを肝に命じて頑張っていきたいと思っております。市と連動して地域福祉活動計画が策定されました。次のステップに進んでいただくために十分に理解をしていただき、職員同士の意思の疎通、仕事に取り組む面では厳しさを忘れないで取り組んでほしいと思います。

繰り返しますが、経営改善計画の3年目、同時に、次のステップに向けての準備ということで、日常の業務に精励していただくことをお願い致します。

会長訓示!

幹部職員を前に!

第三回(2016.02.01)

全ての人が幸せを願い、その実現に心を砕いて生きているのですが、なかなか思い通りにはいかないようです。それだけ”人間という存在”が複雑で難しいものを内に抱えているということのようです。

さて、今年は社協の職員の皆さんに「和顔(わげん)愛語(あいご)」という言葉を提示させていただきました。事務所の壁に掛けていただいております。

私たちは、人や物事に接するとき、自分の思い(好きとか嫌いとか、きれいとか汚いとか・・・)を離れて向き合うことは難しいことのようです。自分の思いだけで向き合うと、どうしても的確な判断や対応ができないことが多いようです。

正しい教えを基に、自らの心の内側をしっかり整えることが出来れば、虚偽(こぎ)(うそ、いつわり)、諂曲(てんごく)(こびへつらう、おもねる)の心を離れて物事に向き合う心が養われます。そして、自分の思いに縛られない、囚われない顔容(がんよう)、態度で、時宜(じぎ)(適当なころあい、ちょうどよい時機)にかなった言葉をもって人に接する姿勢が身に備わるということを教えています。

今年も市民の皆様と色々な場面で関わりを持たせていただくことと思います。社協職員一同さらに気を引き締めて地域福祉の向上に努めていきたいと思います。

第二回(2016.01.06)

新年明けましておめでとうございます。

昨年中は、市民の皆様には社協の事業に対し、ご理解とご支援を賜りましたこと誠に有難く厚く御礼申し上げます。また今年も引き続き変わらぬご協力をお願い致します。

さて、27年は、社協が全力で取り組んでおります、経営改善3ヶ年計画の2年目にあたり、市と連動する形での地域福祉活動計画の策定や、傾聴ボランティアぜみな~るの開講、「カムカムボランティアポイント」モデル事業の推進、フードバンク事業の実施など新たな事業への取り組みを行ってまいりました。

また、役員(理事、評議員)の定数削減を図ったり、市議会議員(文教厚生委員)の方々との懇談の場を設けるなど、地域福祉活動の中核的存在としての形を整えるとともに、職員の意識向上にも努めてまいりました。

そして、これらを踏まえ市民の皆様への広報活動の一環として、このホームページをより充実させ、社協の活動内容の周知を図りご理解をいただけるよう努めてまいりたいと考えております。

今年も社協役職員が一丸となって事業推進に努め、より多くの市民の皆様に社協が地域福祉の中核を担う存在であることを示していきたいと願っております。

どうぞ、本年が皆様にとって良い年になりますよう念じて、年頭のご挨拶とさせていただきます。

第一回(2015.10.01)

皆様こんにちは!社協会長の武藤淳一です。よろしくお願い致します。

この度、社協のホームページに「会長のつぶやきコーナー」が設けられましたので、おつきあい下さい。

進化し続ける機器に、完全に取り残されている私にとって、この企画書に出てくることば(ホームページ、ツイッター、フェイスブック等)にただとまどうばかりで、これから先どう生きていけばいいのか悩ましい日々を過ごしてます。

さて、私は2013年11月末日まで市民生児童委員協議会会長の任にあり、その充て職という形で社協副会長の職にありましたが、その任期を終えてホッとしておりました。

ところが2014年4月21日の理事会で何と会長に選ばれてしまったのです。

辞職後は老後の穏やかな日々の暮らしを夢見ておりましたが、人生とは無情なもので、今までとは全く異なる分野の、しかも責任の重い仕事に就かねばならないという”想定外”が、我が身に起こってしまいました。

そんなこんなで、とにかくもう一度地域福祉とは何か、社協とは何をするところか、会長とは何をしなければならないのか等々学び直しをした(まだ十分でありませんが)1年でした。

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