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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第三十九回

2021-09-01
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 最近、社会での様々な事件、犯罪、災害などを目(ま)の当たりにして、何かしら「私が生きる」ということへの信頼感というか、安心感というものが、崩(くず)れてきていると感じさせられます。
 世界中に広がる人種、ジェンダー(性)、障がい者に対する差別、弱い立場の人に向けられるハラスメント(セクシャル、パワー、カスタマーなど)、児童、高齢者、障がい者への虐待やいじめ、力による少数民族への人権侵害など、コロナ禍、地球規模の気象変動と相まって生きづらさを加速させています。
 現代の人々の行動から垣間(かいま)見られる状況は、何か衝動(しょうどう)的、刹那(せつな)的で、「"自尊(じそん)感情の喪失"━自分の意志や考えなく多数派に所属、疲労感の外見と幼い内面、自分の本当の欲求が不明、総じて自己肯定なく他とのつながりも弱く、結果不平、不安、不満、不足が内外へ向かってしまう━」(ある方の文引用)ということがよく表れていると思います。

 「私は生まれたくて生まれてきたのではない」という人がいますが、確かに頭で考えた「私」はそうかもしれません。しかし「いのち」は生まれたくて、生まれる目的や意義があって生まれてきたに違いありません。それを私は、外の空気を吸ったとたんに忘れてしまったのでしようか。ならばそれを思い出すのが、私たちの学びなのかもしれません。

 私がこの私に生まれたということに、意味や価値がないはずがないと思います。どの人のどの人生もです。
 今のこの私は、地球上に生命(いのち)が誕生して以来、三十数億年ともいわれるなが~い生命(いのち)の営みの結果です。つまり私が誕生するのに三十数億年かかったのです。さらに未来を考えても、今後永久にこの私は出現しません。そういう奇跡のような一瞬が私の人生です。そしてその一瞬は無限の内容を含んでいます。私に先立つ無数の生涯が、遺伝子(いでんし)として私に届いているのですから。

 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉があります。これは「ただ我独(ひと)りにして尊し」ということで、私が私として生まれたそのこと自体が、他と比べる必要なく尊いということです。かけがえのない人生が私に与えられている。それはどんな場合も代行不能である。であるなら、私の人生は、たとえそれが自分にとって不満の多いものであっても、私が受けていくしかありません。私に必要な人生が私に与えられているのです。

 あるポジションにいる人は、そのポジションのことだけ見れば代行可能でしょう。しかし私が務めるそのポジションは唯一のものなのです。
他の誰かが務めれば、それは私が務めるのと全く同じにはなりません。
 私に与えられ、私が生きるべき人生を私が生きなければ、自分で自分の人生を粗末(そまつ)に無価値(むかち)にしてしまうことになります。
言い換えれば、私には私を生きる責任があるのです。
 また、私には同時に、私に関わる一切が付与(ふよ)されています。家族や友人、環境や出会う一切が、それらを含めたすべてが、大きな願いとはたらきに支えられているのです。

 人間として本当に大事な真実真理、このことに出会えない人間ほど恐ろしいものはありません。出会いの縁を願ってやみません。

第三十八回

2021-07-28
  新型コロナウイルス感染が収まらない中、オリンピック競技が本格化しました。開催の是非に揺れた国際的祭典の舞台も、いざ選手たちの躍動する姿を目(ま)の当りにすると輝きを増し、応援にもつい力が入ってしまいます。
 一方で、一般の人たちには緊急事態宣言発令中で、外出自粛が求められていますが、街には若者を中心に人があふれています。

〔7月26日付毎日新聞記事〕
 この日都内の感染者数(1,763人)は、5日連続で1,000人を超えたが、夕方になっても人出は減らない。センター街のビルを警備する男性(62)は、「居酒屋もやっているし、マスクをしない人もいる。危機意識が全くない」と眉をひそめる。
 午後6時前、駅では「緊急事態宣言を解除せよ」などと書かれた手旗を持った人たちが、太鼓をたたきながら主張を呼びかけている。
 夕闇が深まると、カラオケ店には順番を待つ若者があふれた。店から出て来たさいたま市の男性会社員(27)は、大学時代の友人と2年ぶりに会ったという。3回目の緊急事態宣言までは外出を控えたが、「我慢をしたところで変わらない気がした。我慢の限界」と話した。
 人の流れに反して道玄坂を上ると、未明まで営業する居酒屋があった。満席で入店まで20分ほど待つ。
 午後10時過ぎセンター街に戻ると、バーからあふれた外国人が路上で缶ビールを飲んでいる。店をのぞくと、マスクを外した外国人らでごった返していた。

 それぞれの人にそれぞれの言い分があるのでしようが、政府や都庁が宣言を出そうが出すまいが、今は緊急かつ危険な状況にあることは誰も疑う余地のないことでしょう。そのような重大事が、都民に十分に伝わっていない(伝えられていない)ことに、改めて驚きと恐怖を感ぜずにはいられません。
 ひとたび感染してしまうと、本人はもとより周りの人たちにも大変な迷惑をかけることになりますし、重症化しやすいことも、後遺症に悩まされることも繰り返し報じられています。

 今となっては一日も早いワクチン接種が、全ての人にゆきわたることと、改めて多くの人たちに理解を促(うなが)し、何とか感染を止める手立てを講じてほしいと願うばかりです。

第三十七回

2021-06-28
コロナ感染拡大がなかなか収まりません。収まりかけてはまた広がるの繰り返しで疲れ果て、もうどうでもいいというような雰囲気になり始めたのではないかと気にかかります。人と人との距離が離れたままでは暮らしが成り立たないのは当たり前なのですが、困った状況が続いています。
ここが踏(ふ)ん張りどころと分かっていても、長引けばどうしても気持ちが折れてしまいがちになります。しかし、最低限、密を避けマスクを着用して感染を防ぐしかないのも事実です。

経済産業省のキャリア官僚二人(ともに28歳)が、コロナ感染の影響で売り上げが減った個人事業主を対象にする、国の「家賃支援給付金」を騙(だま)し取ったとして逮捕されるという事件が報じられました。
いつもそうですが、災害など人の不幸を利用して悪事を働く不心得者が後を絶たないのは、人間の悲しい性(さが)なのでしょうが、切ない思いをどうすることもできません。

私たちの日常の学びについて、仏教では「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」の「三学(さんがく)」が教えられています。「戒」は良い生活習慣を身につけること。「定」は身心を静かにして精神を集中し、思いが乱れないようにすること。
「慧」はその静かになった心で正しく真実の相(すがた)を見極(みきわ)めることです。つまり、規律ある生活により心がよく落ち着き、そこで正しい世界観が持てるようになるということ。逆に言うと、正しく真実の相(すがた)を見極める智慧(ちえ)は、安定した身心から生まれ、その心身の安定は規律ある生活によって得られるということです。

「戒」はインド語「シーラ」の訳語で、本来は習性・習慣の意味ですが、反復(はんぷく)習慣的に修習(しゅうしゅう)すべき行持(ぎょうじ)(修行生活)を言います。それが習慣化すると「身に威容(いよう)あらしむ」つまり容姿(ようし)に表れるようになります。
幕末に欧米を訪れた武士が、出会った人たちから尊敬の念をもって接せられたのは、文化の違いを超えて、人間として風貌(ふうぼう)や立ち居振る舞いに、人の心を動かすものが感じられたからなのでしょう。
芸術でもスポーツでも他のどの分野でも、本物になるためには、まずその基本を繰り返ししっかり身につける。そこで初めてその人独自のオリジナルが力を持ちます。
そしてさらに人間生活者としての基本が身につけば、目先の誘惑や欲望に振り回されないブレーキがかかる。生活の中にこれだけは譲れないという規範や誇りが生まれます。

生活を整える基本は、仏教の「中道(ちゅうどう)」の教えです。すなわち極端(きょくたん)を離れてバランスよく暮らしを立てるということです。睡眠や食事の偏(かたよ)りは、身心に重大なストレスを与え、知らぬ間にイライラしたり、集中できなかったり、続かなかったり、我慢(がまん)ができなくなったりします。
まず誘惑のスイッチを切り、生活と身の回りを整えることから始めましょう。

第三十六回

2021-06-03
当市での感染急拡大で心配したコロナ禍も、やや収まりを見せてきたようですが、依然として収束には至りません。国内でもワクチン接種を懸命に進めていますが、まだ大変な状態が続いており、けっして油断はできません。全国規模で、感染を防ぐことと経済を回すこととの狭間(はざま)で右往左往(うおうさおう)させられ、どこまでも悩みの種は尽きないようです。

私たちは、すべてのことに対して、同じように対応することはできません。一つのことに向き合う時には、一つの空間にしか居られませんし、一つのことしかできません。
昔「ながら族」という言葉が流行したことがありました。ラジオを聞きながら、テレビを見ながら受験勉強をするなど、同時にいくつかのことをしているように見える場合も、それぞれの瞬間には意識が注がれているのは一つのことです。

何かを選ぶということは、他のことを断念(だんねん)することになります。それぞれの瞬間で何を選ぶべきか、生活のなかでの優先順位をつけなければなりません。
大事なことには順番があります。出会った環境・条件の中で、まずしなければならないことは何だろうか。今現在、つまり過去の結果として、また未来の原因としての今現在、私が第一にしなければならないことは何なのか、よく考えなければなりません。
そのうえで、目の前の様々な誘惑や欲望に対してどうすればよいのか、社会人としてどう行動すべきなのかということなのでしょう。

仏教では「いのち」の問題を「一大事」といいます。
賜わったいのちを、どうすれば他のいのちと共に、安心していきいきと生きることができるのかという問題です。
その「大事」以外は「小事」で、それを「ご利益」とも言います。ご利益とは、私の都合に叶(かな)うように物事が進むことです。商売繁盛、無病息災、家内安全、入試合格など、願い通りになることを宗教と勘違いしては困ります。宗教の問題は、「一大事」の問題で、私の都合の問題ではありません。

いま時々刻々と移り変わっていく「今現在」を生きなければならない私たちは、物事の優先順位を見誤(みあやま)らないよう心がけていかなければならないのではないかと思います。

第三十五回

2021-05-12
 コロナウイルス感染が止まりません。会津若松市でも感染者の数が急増し、その数が連日報道されています。自粛生活も長引き、精神的にも経済的にもその影響の大きさは、日に日に深刻(しんこく)さを増してきているようです。後はワクチン接種の効果を期待するしかない、という状況のようです。

 近年、世界中でその傾向が顕著(けんちょ)になり、さらにこのコロナ禍の中で一層強調されているように感じられるのが「個人の自由」ということです。
 特に日本では、戦後「民主主義」に基づく教育や社会風潮の中で、「個性の尊重や伸長」が大きく言われてきましたが、その個性とかその背景にある自由ということをもう一度吟味(ぎんみ)してみる必要があると思います。

 「個性」とは、本来その人に備わっている人格が表れ出たものだと思います。ですから、結果としての「個性」が発揮されるためには、その前提になる人格・発想・価値観などが問われなければなりません。はたしてこの私に「個人」がしっかり確立しているでしょうか?
 また「自由」ということも、己(おのれ)さえよければ他人の迷惑など問題でない、という自分勝手なワガママを通すことが自由であるかのように思われがちですが、欧米の近代への歴史の中で、それこそいのちと引き換えに獲得(かくとく)した、「厳粛(げんしゅく)で尊い権利」なのです。
 テレビやゲームに夢中になり時間を忘れることが自由なのでしょうか。緊急事態宣言の中、県外にまで遊びに出かけたり、深夜まで飲み会をしたり、マスク着用を拒否することが自由なのでしょうか。ただ単に自分勝手な主義主張に囚(とら)われ、振り回されているだけなのではないのか・・・。

 ある先生の言葉が印象に残っています。
 「自由とは、人間が本来どうしてもしなければならないことが、何者にも、どんなことにも妨(さまた)げられずにできる権利である」

 ヒトとして生まれた者は、人間に成り、人間として共に生きるために、本来しなければならないことがある。それを自らの責任ではない束縛(そくばく)や強制(きょうせい)などによって、また、性別や年齢、貧富(ひんぷ)、国籍等々によって妨(さまた)げられてはならない。そういう権利があるということでしょう。

 何を実現するための自由であるのか、またどういう自分が発露(はつろ)された個性であるのか。個性だと思っていて、実は流行や他人の眼に縛(しば)られて少しも自由でない私ではないのか。本当に尊い自由をはき違えてはいないのか、真剣に考えてみなければならないのではないかと思います。

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