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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第三十四回

2021-04-02
 いま世界各地では、人種差別や性差別による人権侵害の問題が起こっています。内戦による避難民の悲惨な状況、少数民族への弾圧(だんあつ)や迫害(はくがい)、国民を守るためにある軍隊や警察が、こともあろうに自国の民(たみ)に向って武器を使用し、多くの死傷者を出すという出来事に、驚きとともにやりきれない思いにさせられています。
 国内でも、施設職員による障がいを持つ人たちへ、また職場の上司による部下へのセクハラやパワハラ、いじめ、嫌(いや)がらせなどの多発、家庭内では子供への虐待、妻へのDV等、人を傷つける行為が頻繁(ひんぱん)に起こっています。また、コロナ感染の不安やストレスから、心無い言動が増えるなど、私たちの生活に暗い影を落としています。

 私たちは、自分が幸せかどうかをどうやって確かめているのでしょうか。周りを見回してあの人よりはましだとか、あの人にはかなわないだとか、他人と比べないと幸せかどうかさえ分からないような状態になっていないでしょうか。
 ひょっとすると私たちの幸せは、自分より下の人を見て初めて成り立つ(逆を言えば人より下になれば不幸)と思っているのではないか。だからいつも他人と比べずにはいられないのでしよう。

 学校でも社会生活上でも個性を尊重するといいながら、その個性と思っているものが、実は同じ質のものが集まった中での強弱や、優劣、大小、勝ち負け、老若、健病などの違いでしかないということになっているのではないでしようか。
 同じ質ということは、本来人間にはあり得ないことです。一人ひとりは全く独立の一人ひとりであり、他人とは違うのです。違っていいし、当然だし、違うことでしか成り立たないのです。

 幸せは、他人と比べて確かめるものではありませんし、ましてや誰かが従属的(じゅうぞくてき)になり、我慢(がまん)をすることで成り立つようなものではないのです。
 周りがどうであろうと、私が私であることを通して幸せであると実感できるかどうか、そのことが問われるのでしょう。

 明珠在掌=みょうじゅ(何ものにも代えがたい宝物、幸せ)たなごころにあり(すでに自分の手の中にある)

 私が私に安心して、他の人と共にいきいきと生きていける、どの人も居ていいんだという、そういうあり方を確かめていきたいものです。

第三十三回

2021-03-02
「ことば」にはいのちがあるといわれます。
そういうことばから受ける「響き」というものを感じ取れなかったなら、そのことばはいのちを持たない死語となってしまいます。
生活の中に響いてくるものがなければ、それは死んだことば、新しいことばに直してみても決して生き返ることはありません。
 しかし、それはことばの方に責任があるわけではありません。まして、ことばが死ぬわけでもありません。
 それよりも、ことばそのものが持つ"ひびき"、この私の胸を打つそういう"世界"がなくてはならないのでしょう。そういうことを感じ取れる感覚が、この私に育っているかどうかの問題なのです。

 この頃は、小学校、幼稚園、そして保育園でも英語の学習が取り入れられているようです。

 ある日の孫(幼稚園年長組女の子)と私の会話。
 「おじいちゃん、リンゴのこと英語でなんて言うか知ってる?」
 「知ってるよ、"アップル"でしょう」
 「ちがうちがう、"アポー"(発音どおりに書けません)だよ!」

 「おじいちゃん、英語で"いただきます"ってどう言うの?」
 「ん、………?」

 英語のことはよくわからないのですが、多分「いただきます」ということばはないのでは、と思うのですがどうでしょうか。
 日本には「いただきます、ごちそうさま、有難うございます、もったいない、お大事に、申し訳ありません、ごめんなさい、お恥ずかしい(ことです)」などという独特のことばがあります。
 天地自然のはたらきを身に受けて、あらゆる生命(いのち)と共に生きていることを深い感動をもって受け止める、「いただく」「もったいない」「有難(ありがた)し(有ること難(かた)し)」などという言語表現は、日本人以外には無いのではないかと思うのです。

 「私たちがものを考えたり行動したりする本(もと)となるのは、その人が積み重ねてきた生活習慣にある」といわれています。
 どのような環境に生まれ、どのような育成を受け、どのような習慣を身につけたかが、その人の言動の本(もと)になるということでしょう。それほど日常の生活習慣は大きな意味を持つということなのだと思います。

 人と人とを結び付ける大事なはたらきをする「ことば」を通して、私たちの感覚を育ててきた日本という国が、他の国に例を見ない独特の文化を築いてきたことを、いま改めて思い起こしていきたいと考えています。

第三十ニ回

2021-02-03
 昨年秋から増え始めた新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。そのような中、11都道府県を対象にした二度目の緊急事態宣言が発令されました。
 私たちの身の回りでも、いつの間にか感染者が増加し、それこそ"人ごとではない"状況になってしまいました。

 新しい生活様式ということでさまざまな方法がとられ、何とかこの状況を乗り切ろうと懸命の努力が続けられていますが、私たちの生活に及ぼす影響は計り知れないものがあります。

 先日気になる新聞記事が目に留まりました。このコロナ下の暮らしの変化の一つとして、自殺者の増加ということが報じられていたことです。
 中でも、女性の自殺者が二年ぶりに増加したことが挙げられ、その原因がコロナの流行に伴う経済情勢の悪化や、外出自粛などで外出の機会が減り、子育てや介護、家庭内暴力などに関わる問題が深刻化したことにあると分析していました。

 もう一つは、ジャーナリストの池上 彰さんの文章です。
 ー感染を防ぐには、「ソーシャルディスタンスをとることが必要だ」と言われるようになりました。でも
  ソーシャルディスタンスは「社会的距離」という意味です。私たち人間は、社会の中でこそ生きていけ
  るもの。他人との間に「社会的距離」を取っていては、寂(さび)しくて辛(つら)いのです。ここは
  「フィジカルディスタンス(物理的距離)」という言葉を使うようにしましょう。物理的距離は離れて
  いても、社会的距離つまり「心の距離」は離れない。そんな生き方を心がけようではありませんか 一
 誠にその通りだなと感心させられました。意味もわからず「ソーシャルディスタンス」などと言っていたことが恥ずかしくなりました。

 人間は近年ことに個人主義的傾向が強くなったように感じられます。自分さえよければ、自分に害がおよばなければ何をしても、何を言ってもかまわない。それによって他人がどうなろうと意に介さない。そんな気分が広がっているような気がしてなりません。
 この不自由な生活の中でも、私たちは「人間(じんかん)」一間柄を生きる存在、人と人、ものと人との関わり合いを生きる関係的存在一であることを肝に銘じて、「心の距離」を離れずに生きて往(ゆ)きたいものです。

第三十一回 新年ご挨拶

2021-01-08
新年明けましておめでとうございます。
 皆様方には、令和三年の新春をどのように迎えられたでしょうか。
 昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年間でしたが、厳しく辛い日々を過ごされた方も多かったのではないかと存じます。影響を受けられた方々には心よりお見舞いを申し上げます。
 会津地方は、当初少ない感染者数を維持(いじ)してきましたが、いつの間にか数が増え、いよいよ身近に迫ってきたことをひしひしと感じさせられています。
 幸いにも当社協におきましては、変わらぬ市民の皆様の温かいご支援に支えられ、ここまで自粛(じしゅく)を余儀(よぎ)なくされつつも、できる限りの事業に取り組んでまいりました。おかげ様で職員一丸となっての感染予防対策のもと、ご利用いただいている方々、職員一同感染者を出すことなく過ごせましたこと、改めて感謝申し上げる次第でございます。
 今年もまた、感染予防対策怠りなく、可能な限り事業を実施して参りますので、皆様方の一層のご理解とご支援を賜わりますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

 「新しい生活様式」といわれるように、私たちの生活は今までとは大きく変わりました。
 マスクをつけ、密(みつ)を避けての生活は、本来の人と人との触れ合いの場を奪ってしまいました。マスク越しの応対(おうたい)は、表情を通しての互いの感情の確かめ合いが不十分となり、特に子供と母親や保育園・幼稚園・学校の先生との間で、大事な「笑顔」が伝わりにくくなったことが心配されているようです。
 不自由な生活の中で、不安と閉塞感(へいそくかん)とやり場のないイライラに覆(おお)われて、他人に不必要に当たり散らすという行為が増えてきました。
 私たちが、このコロナ禍の中で経済的に失うものが多いこともありますが、人間性を見失っていくことの恐ろしさも実感させられています。
 今や全人類が未曾有(みぞう)の出来事に直面し、私たち一人一人の上にその対応(たいおう)が求められている、「時」を生きなければならないのだと感じさせられています。
 今年一年を通してこの難しい課題をしっかり受け止め、克服していくために力を合わせ、平穏な生活に戻れるよう収束に向けて歩んでまいりたいと思います。

第三十回

2020-12-01
私たちは、近年数多くの自然災害や事故、遡(さかのぼ)ると戦禍(せんか)にも見舞われてきました。そして今、新型コロナウイルスの感染という稀(まれ)に見る脅威にさらされています。その度に多くの人命が失われ、大切なものが奪われるという被害を被(こうむ)ってきました。
 
そして各地では、その犠牲者を悼(いた)み追弔法会(ついちょうほうかい)が執り行われていますが、実はこの追弔会法要(ついちょうかいほうよう)ということは、ただ単に亡くなられた方々を偲(しの)んだり、供養したりすることだけではないのです。
 
普通私たちは、「時」ということを考えるとき、「過去・現在・未来」という流れで受けとめていますが、仏教では「過去・未来・現在」というとらえ方をします。
 
今日(こんにち)の私たちは、過去に起きた災害や事故や戦争という出来事から、「私たちの犠牲を無駄にしてくれるな」と過去から深く願われている、そういう責任を担(にな)って生きているのでしょう。
 
同時に、私たちの今さえよければということで、何もかも使い尽くし利用し尽くしている現在の生活が、未来からおそらくは「あなたたちは未来のことをどう考えてきた」のか、「子や孫にどんな未来を残そうとしてきた」のか、と問われている、そういう過去と未来に問われている”現在(いま)“を生きているのでしょう。
 
亡き人を偲び法要を営むということは、過去と未来からの問いかけに気付かされる「学びの場」をいただくという大切な意味も持っているのです。
 
人間というものは、他の生き物とは違います。いろいろな違いがありますが、人間は人間に育てられないと人間になれないのです。
人間は未完成で、未熟なままで生まれてきます。ですから、何に出会い何を学ぶかによって大きく変わります。
 
犬や猫は完成されて生まれてきます。家で人間に飼われたり、動物園で飼育係に育てられたので、気がついたら人間になっていたということはありません。変わらないのです。
 
人間は、出会ったこと(もの)学んだこと(もの)によって、すなわち出会った縁(環境)によって変わるのです。環境次第でどうにでも変わってしまうのが人間なのです。
そういう意味では、人間は課題的存在といえます。まさに過去と未来から問われて、課題を生きていくものなのです。
 
ところが、私たちはその課題を忘れて、日常の目の前のことにとらわれそれに振り回されていくので、なかなかそういうことに気づきません。だからこそ、常に本来の在り方に引き戻してくれる”はたらき”に出会うことが、何よりも大切なことなのです。
 
今起こっている様々な出来事を通して、改めてそういうことを学び直し考えさせていただいて、本当の意味で”人間”を生きて往きたいと思います。

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