会長のつぶやき
第十三回
2017-11-01
「私のわがままは当たり前、他人のわがままは許されない」
ある所で目にした掲示板のことばですが、いろいろなことを考えさせられます。
私たちは、自分のやっている(言っている)日常の行為やことばについては、すべてにちゃんと言い訳があるようです。
「こうこうだから、このくらいのことはさせてもらわないと」「こうするのも仕方がないではないか」などと言ったり思ったりしています。ところが同じことを他人がしているのを見ると「あんなわがままな」「許されない」となってしまいます。
先日、私のお気に入りのグラスが見当たらないので聞いてみると、「あゝあれは洗っていたら“割れて”しまいました」「え、“割って”しまったのか」という会話を交わし、後で苦笑してしまいました。
自分がやると「割れた」、他人だと「割った」ということになります。常に「私には責められるべき何の問題もない」ことにしているようです。
「福は内、鬼は外」と、追い出した鬼が隣の家で何をしようが、「虫おくり」でおくった虫が隣の町で何をしようが、まるでトイレの水を流したら汚物はこの世から消えてなくなるように思って暮らしています。
他人よりも自分の方がいい目にあったときに満足があり、幸福になれると考えています。ですから「他人」とは、いつも私の満足感を満たし、私に優越感を抱かせるための比較対象でしかありません。
こういう私の在り方を見つめ直し、自己にかけられた願いや、私が存在している意味や価値を発見する営みを「宗教」といいます。
そしてその営みによって、他と共に生きることが自らの生きる意欲となるような道が開かれていくことを「救われる」というのです。