会長のつぶやき
第三十五回
2021-05-12
コロナウイルス感染が止まりません。会津若松市でも感染者の数が急増し、その数が連日報道されています。自粛生活も長引き、精神的にも経済的にもその影響の大きさは、日に日に深刻(しんこく)さを増してきているようです。後はワクチン接種の効果を期待するしかない、という状況のようです。
近年、世界中でその傾向が顕著(けんちょ)になり、さらにこのコロナ禍の中で一層強調されているように感じられるのが「個人の自由」ということです。
特に日本では、戦後「民主主義」に基づく教育や社会風潮の中で、「個性の尊重や伸長」が大きく言われてきましたが、その個性とかその背景にある自由ということをもう一度吟味(ぎんみ)してみる必要があると思います。
「個性」とは、本来その人に備わっている人格が表れ出たものだと思います。ですから、結果としての「個性」が発揮されるためには、その前提になる人格・発想・価値観などが問われなければなりません。はたしてこの私に「個人」がしっかり確立しているでしょうか?
また「自由」ということも、己(おのれ)さえよければ他人の迷惑など問題でない、という自分勝手なワガママを通すことが自由であるかのように思われがちですが、欧米の近代への歴史の中で、それこそいのちと引き換えに獲得(かくとく)した、「厳粛(げんしゅく)で尊い権利」なのです。
テレビやゲームに夢中になり時間を忘れることが自由なのでしょうか。緊急事態宣言の中、県外にまで遊びに出かけたり、深夜まで飲み会をしたり、マスク着用を拒否することが自由なのでしょうか。ただ単に自分勝手な主義主張に囚(とら)われ、振り回されているだけなのではないのか・・・。
ある先生の言葉が印象に残っています。
「自由とは、人間が本来どうしてもしなければならないことが、何者にも、どんなことにも妨(さまた)げられずにできる権利である」
ヒトとして生まれた者は、人間に成り、人間として共に生きるために、本来しなければならないことがある。それを自らの責任ではない束縛(そくばく)や強制(きょうせい)などによって、また、性別や年齢、貧富(ひんぷ)、国籍等々によって妨(さまた)げられてはならない。そういう権利があるということでしょう。
何を実現するための自由であるのか、またどういう自分が発露(はつろ)された個性であるのか。個性だと思っていて、実は流行や他人の眼に縛(しば)られて少しも自由でない私ではないのか。本当に尊い自由をはき違えてはいないのか、真剣に考えてみなければならないのではないかと思います。