会長のつぶやき
第五十一回
2022-08-31
現代社会の一つの特徴として、「個」の尊重ということがあります。個性や人権を大事にすることはとても大切なことですが、「人それぞれ」をあまり強調し過ぎると、人間として本当に大切なことを見失う方向に進んでしまうということがあるようです。
あらゆることが個別化また個人の利益追求の方向に傾き、便利で快適な個室に居て、知らず知らずのうちに人間として社会と関わることが少なくなってしまう。その姿を「コクピット的全能感(ぜんのうかん)(何でもできる)」を持っていると表現した人がいます。
例えば、戦闘機の操縦席のように、周りの機器やリモコンで座ったまま情報をキャッチ(テレビ、スマホ)し、あらゆるところにアクセス(インターネット)し、まったく痛みや苦痛を感じることなく相手を攻撃(ゲーム)できる。これが私たちの現代文明が日指した姿なのでしょうか。そしてそれは幸せなのでしょうか。
世界には、日本の子どものお年玉以下のお金で、家族全員が1年間生活している人が10億人もいるそうです。その人たちが不幸で、私たちがはるかに幸せとはとても思えないのですが・・・。
今の私たちは、ワガママが通れば通るほど、自分の都合がうまくいって自分の思い通りになればなるほど暗くなっていくようです。満たされたはずなのに何か明るくならない、元気が出ない、そんなふうになっていくようです。
辛(つら)く苦しい状態のことを「地獄」といいますが、その「獄」の字は「ケモノヘン」と「犬」の間に「言」という形です。つまり、ケモノと犬がコミュニケーションしようとするが出来ない姿です。つながりや関係性が切られ孤立させられていくということが、人間にとって一番辛く苦しいことです。
平安時代の僧・源信僧都(げんしんそうず)の著書『往生要集(おうじょうようしゅう)』には「我今帰(き)する所なく、孤独にして同伴(どうはん)なし」と説明されています。安心できる帰る場所がないのが地獄であり、関係性を絶たれて排除(はいじょ)され差別され無視されて、ともに生きたいと体中が願っているのにともに生きともに喜び悲しむ人がいない、それが地獄なのだと。
自分の中に生きる喜びや楽しみや満足感のない人ほど、下方比較(かほうひかく)(自分より下のものを探しそれと比べて満足しようとする)をしたがる。それが差別やいじめやハラスメントなどになっていきます。他の人の人間性を奪うことが、実はその人自身が人間性を失うことになるのです。そんな方向に本当の幸せがあるはずがありません。下方比較によって一層非人間化が進み、なお内からの満足はなくなるという悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)ってしまいます。
私たちは、自分に利益があることだけが幸せで、他人に物をあげたり分けたりするのは損だという考え方があります。しかしそれは逆なのです。おすそ分けすることができるという幸せ、困っている人に自分のできる限りのことをすることができる幸せというものもあるのでしよう。
犬や猫など動物を表す言葉と異なり、私たちは「間」の上に「人」という字をおいて「人間(じんかん)」といいます。つまり「間柄(あいだがら)」という関係性の上に私たちの一人ひとりの「人」というものが成り立っているということです。
私という「人」の幸せや存在満足は、「間柄」(関係性、共感、挨拶、会話、気遣い、思いやり、親身のふれあい、コミュニケーションなど)があってはじめて成り立つのです。
コクピットから出て、人間の温かさ爽(さわ)やかさを感じてほしいと思います。
あらゆることが個別化また個人の利益追求の方向に傾き、便利で快適な個室に居て、知らず知らずのうちに人間として社会と関わることが少なくなってしまう。その姿を「コクピット的全能感(ぜんのうかん)(何でもできる)」を持っていると表現した人がいます。
例えば、戦闘機の操縦席のように、周りの機器やリモコンで座ったまま情報をキャッチ(テレビ、スマホ)し、あらゆるところにアクセス(インターネット)し、まったく痛みや苦痛を感じることなく相手を攻撃(ゲーム)できる。これが私たちの現代文明が日指した姿なのでしょうか。そしてそれは幸せなのでしょうか。
世界には、日本の子どものお年玉以下のお金で、家族全員が1年間生活している人が10億人もいるそうです。その人たちが不幸で、私たちがはるかに幸せとはとても思えないのですが・・・。
今の私たちは、ワガママが通れば通るほど、自分の都合がうまくいって自分の思い通りになればなるほど暗くなっていくようです。満たされたはずなのに何か明るくならない、元気が出ない、そんなふうになっていくようです。
辛(つら)く苦しい状態のことを「地獄」といいますが、その「獄」の字は「ケモノヘン」と「犬」の間に「言」という形です。つまり、ケモノと犬がコミュニケーションしようとするが出来ない姿です。つながりや関係性が切られ孤立させられていくということが、人間にとって一番辛く苦しいことです。
平安時代の僧・源信僧都(げんしんそうず)の著書『往生要集(おうじょうようしゅう)』には「我今帰(き)する所なく、孤独にして同伴(どうはん)なし」と説明されています。安心できる帰る場所がないのが地獄であり、関係性を絶たれて排除(はいじょ)され差別され無視されて、ともに生きたいと体中が願っているのにともに生きともに喜び悲しむ人がいない、それが地獄なのだと。
自分の中に生きる喜びや楽しみや満足感のない人ほど、下方比較(かほうひかく)(自分より下のものを探しそれと比べて満足しようとする)をしたがる。それが差別やいじめやハラスメントなどになっていきます。他の人の人間性を奪うことが、実はその人自身が人間性を失うことになるのです。そんな方向に本当の幸せがあるはずがありません。下方比較によって一層非人間化が進み、なお内からの満足はなくなるという悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)ってしまいます。
私たちは、自分に利益があることだけが幸せで、他人に物をあげたり分けたりするのは損だという考え方があります。しかしそれは逆なのです。おすそ分けすることができるという幸せ、困っている人に自分のできる限りのことをすることができる幸せというものもあるのでしよう。
犬や猫など動物を表す言葉と異なり、私たちは「間」の上に「人」という字をおいて「人間(じんかん)」といいます。つまり「間柄(あいだがら)」という関係性の上に私たちの一人ひとりの「人」というものが成り立っているということです。
私という「人」の幸せや存在満足は、「間柄」(関係性、共感、挨拶、会話、気遣い、思いやり、親身のふれあい、コミュニケーションなど)があってはじめて成り立つのです。
コクピットから出て、人間の温かさ爽(さわ)やかさを感じてほしいと思います。