会長のつぶやき
第五十六回
2023-02-15
最近の新聞、テレビのニュースを見ていると、耳を疑いたくなるような事件が、しかも頻繁(ひんぱん)に起こっていることが報じられ、驚かされています。強盗、殺人、詐欺(さぎ)、子供までがターゲットにされる性犯罪、飲食店での信じられないような迷惑行為、宗教(?)団体による詐欺まがいの事件、五輪開催における利権がらみの問題、政治家の行動や問題発言など枚挙(まいきょ)にいとまがないほどです。いったいこの国の人間は、どうなってしまったのだろうかと、呆(あき)れると同時に心配になってしまいます。
この頃気になることの一つに、この国における「私と公(わたくしとおおやけ)」のことがあります。そのけじめというか境界が崩壊(ほうかい)もしくは意識から抜け落ちているような印象を持ちます。世界中どこでも個人として確保されるべきことと、公共・共有の物として大事にされるものと、どちらもきちんと教えられています。
「私」としては許されるが、「公」の場では控えるべきこと、「私」としては控えても、「公」としては積極的になるべきこと等それぞれあります。誰か(私的)の大きな声を公と見誤ってはなりません。
日本の「公」は「おおやけ」すなわち「大きな家」(有力者、権力者)をさす言葉から始まったからでしょうか。公といえば上から与えられる「官(かん)」のイメージが強くあり、公(こう)と官とが混同されるきらいがあります。しかし欧米における「公(パブリック)」は「民(みん)」によって形成されてきました(イギリスではパブリック・スクールの語で、私立中学校を意味するそうです)。そのせいかどうかわかりませんが、日本では「公衆○○」などの公的な場所をきれいに使おうという意識が薄いようです。
「公」は本来「開かれた共なる場」のことで、私有(しゆう)してはならないものでしょう。そこには必ずルールがあり、公を形成する人たちの意識が求められます。そのルールは官から与えられるものではなく、私とあなたと共に生きるもの(民)が、作っていくものです。
私は単独では誕生も生存もできないもので、あらゆる関係性の中に存在しています。私は、私に委(ゆだ)ねられた人生の当事者・主体であると同時に、時間空間を共にするあらゆるいのちとの連帯の中に位置づけられています。私という存在には、私有できない公的(こうてき)意味(公(おおやけ)性)ということがあるのです。その公が公として尊重され維持されることで「私」が豊かになっていきます。
教育は、人間が人間になるためにどうしても必要なもので、それは人間の手によってなされねばなりません。少なくとも「学校」というものは、民のために、民によってつくられ、民によって運営されている公(こう)教育機関です。あらゆる施設・物品は、私たちが共有する大切なものです。私たち一人一人がよく考えて、丁寧(ていねい)に維持(いじ)していかなければなりません。公をつくり公を尊重するという意識で、公的状況へ出ていきましょう。そこで他者と出会い、そして自分に出会う。そここそが、あなたと私の生きる場なのでしょう。
この頃気になることの一つに、この国における「私と公(わたくしとおおやけ)」のことがあります。そのけじめというか境界が崩壊(ほうかい)もしくは意識から抜け落ちているような印象を持ちます。世界中どこでも個人として確保されるべきことと、公共・共有の物として大事にされるものと、どちらもきちんと教えられています。
「私」としては許されるが、「公」の場では控えるべきこと、「私」としては控えても、「公」としては積極的になるべきこと等それぞれあります。誰か(私的)の大きな声を公と見誤ってはなりません。
日本の「公」は「おおやけ」すなわち「大きな家」(有力者、権力者)をさす言葉から始まったからでしょうか。公といえば上から与えられる「官(かん)」のイメージが強くあり、公(こう)と官とが混同されるきらいがあります。しかし欧米における「公(パブリック)」は「民(みん)」によって形成されてきました(イギリスではパブリック・スクールの語で、私立中学校を意味するそうです)。そのせいかどうかわかりませんが、日本では「公衆○○」などの公的な場所をきれいに使おうという意識が薄いようです。
「公」は本来「開かれた共なる場」のことで、私有(しゆう)してはならないものでしょう。そこには必ずルールがあり、公を形成する人たちの意識が求められます。そのルールは官から与えられるものではなく、私とあなたと共に生きるもの(民)が、作っていくものです。
私は単独では誕生も生存もできないもので、あらゆる関係性の中に存在しています。私は、私に委(ゆだ)ねられた人生の当事者・主体であると同時に、時間空間を共にするあらゆるいのちとの連帯の中に位置づけられています。私という存在には、私有できない公的(こうてき)意味(公(おおやけ)性)ということがあるのです。その公が公として尊重され維持されることで「私」が豊かになっていきます。
教育は、人間が人間になるためにどうしても必要なもので、それは人間の手によってなされねばなりません。少なくとも「学校」というものは、民のために、民によってつくられ、民によって運営されている公(こう)教育機関です。あらゆる施設・物品は、私たちが共有する大切なものです。私たち一人一人がよく考えて、丁寧(ていねい)に維持(いじ)していかなければなりません。公をつくり公を尊重するという意識で、公的状況へ出ていきましょう。そこで他者と出会い、そして自分に出会う。そここそが、あなたと私の生きる場なのでしょう。