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会長のつぶやき

第四十一回

2021-11-15
 近年とみに命が軽く扱われる事件が多発しているように感じられます。皆、口では命の大切さを唱えていますが、現実には「いのち」の意味を問うことも学ぶこともなく、非常に粗末(そまつ)にされていると思われてなりません。
 自分の思い通りにならない不満や不安を不特定多数の人にぶつけ、意味のない迷惑を振りまいて何の痛痒(つうよう)も感じない、そういう感覚が増えていくのではないかと空恐ろしい思いを強くしています。
 執拗(しつよう)に繰り返されるいじめを受け、地獄の苦しみに耐えきれず必死にSOSを発信しているにもかかわらず、そのことを受けとめることもせず自殺に追い込んでしまうケースや、事件に遭(あ)っていのちを失った人の家族に対する、SNS等での誹誇中傷(ひぼうちゅうしょう)の中身や数の多さにはただただ驚きあきれるばかりです。
 また、歩きスマホによる事故の多さと、その後遺症に苦しむ人たちの様子や後悔する姿とメッセージが報じられるなど、インターネット、パソコン、スマホ等の過剰(かじょう)なまでの普及発展が、人間の心や身体を蝕(むしば)み、社会生活に及ぼしている悪影響ははかり知れないものがあるようです。私たちは、手軽に手にした便利さに振り回され、逆に不幸を招くという皮肉な現実に曝(さら)されているようです。

 「いのち」は、生まれたくて生まれ、生きたい、成長したい、わかり合いたい、つながりたいと生きているに違いないのです。しかし、そのいのちの管理人ともいうべき「私」は、生まれて生きる意義や方向を見失ってしまっているようです。
 命がその人の母胎(ぼたい)に宿り、そして人間として誕生した。つまりこの私は、いのちに選ばれて生まれ、今、いのちをお預(あず)かりして生きているのです。そして、同じ生きるのなら人格ある人間として「私」として生きたい。「私」としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいということを、心の底で願っているのでしよう。生きたいのです。殺したくも殺されたくもないのです。

 「いのち」とは、生きようとする願いや働きや力のことだと思います。
 そしてあらゆる「いのち」は、つながりながらいきいきと響(ひび)き合い、生かしあう世界(これを「極楽」、「浄土」という言葉で表現したのです)へと向かっている。そういう点で「いのち」は「仏性(ぶっしょう)(真実の在り方を求める潜在力(せんざいりょく))」であり、私たちはそういうものを備(そな)えて今を生きているということです。
 ですから、私が私として生きるとは、「私 事(わたくしごと)」ではありません。いのちを含めた私を私有化(しゆうか)することは許されません。いわば「公共的(こうきょうてき)な私」を生きているのですから、人間として生きる責任があるのです。そのいのちは、私の人生を通してどうなりたいと、どうありたいと願っているのでしょう。

 日常の生活の中で、時に感動を共有し深く共感する経験をします。そんな時、今日(こんにち)まで生きていればこそ出会えたと思います。生きることは出会いです。それは、自分の外にあるものとの出会いもありますが、自分自身に感動をもって出会うこともあるのです。
 星野富弘さんの有名な詩があります。
  いのちが 一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが 苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった
(『《花の詩画集》鈴の鳴る道』偕成社)

 様々な環境条件の中で、この私が現に生きていると「今」を自覚した時、自(みずか)らの内から、私としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいという、いのちから私への呼びかけが聞こえてくるでしょう。
社会福祉法人
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