会長のつぶやき
第四十六回
2022-04-15
春四月、花の季節とともに年度変わりの気ぜわしい時でもあります。
学校や職場では、卒業・入学・就職・人事異動など、それぞれの人生の節目となる大事な出発のときでもあります。
当社協でも四名の新入職員を迎え、部署の配置換えも行われ心新たに新年度のスタートを切りました。ただ残念なことに、いまだにコロナ感染が収まらず事業運営に支障をきたしていますが、できる限りの力を尽くしていきたいと思っています。
人類の歴史の中で、この地球上に戦争のない時はないほど常にどこかで争いが起き、多くの人々が深い悲しみの中で生きざるを得ないということが続いています。
考えてみると、人間ほど不可解な生き物はいないようです。ヒトという生き物は、時に美しく輝き、時には信じられないような残酷(ざんこく)な行為をしかも平然(へいぜん)と行う。何とも捉(とら)えどころのない不可思議な存在です。
だからこそ人類は、その歴史の中で常に「人間とは何か」を問い続け、そしてその答えの一つとして生み出してきたものが、「宗教」であり「教育」であろうと思います。
「教育」とは「人間教育」であり、その理念は「自己の信念の確立」であり、ともどもに人間性豊かな自覚的人間に成っていく歩みです。つまり真の自立者(独立者)となることだと思います。
例えば、親からの自立というと親への反抗とか、親とあまり話さなくなることのように思われるかもしれません。しかし、実は親に話せない秘密を打ち明けられる友だちができて、はじめて「親離れ」とか「自立」ということになるのであって、親への秘密をただ一人抱(かか)えてどうすることもできないというのは、いわば「孤立(こりつ)」です。自分の悩みなどの隠(かく)し事を打ち明けられる友だちができた時が本当の自立です。つまり、その勇気と支え合い分かり合える友が、自立の中身なのです。自立(独立)と連帯・共感は同時なのです。
独(ひと)りぼっちではないという自覚に立って、安心して友と共に歩んでいく、他とコミュニケーションしながら生きるということです。出会いとふれあいを大切にし、互いに認め合い、尊敬しあう関係の中で高めあっていくのです。そのために他人に不快感を与えず、ルールや社会常識を尊重し、他人の都合や立場・見方・志向などを認めていくことが大切です。
そのコミュニケーションの出発点として「挨拶」があります。挨拶は、相手の存在を認め敬意を払う表現であるとともに、自らの存在主張であり、さらに相手と挨拶というひと時を共有することになります。人と人を結ぶ懸(か)け橋といってもいいでしょう。
あらゆる国や民族に挨拶の文化があり、日本のように一歩下がってお辞儀する国や、一歩近づいて握手する習慣の国もあります。私たちは、食べ物にまで「いただきます」と挨拶する文化をもっています。また、武道やスポーツも礼(挨拶)に始まり礼に終わるのは、自分もそうだが対戦相手も自己鍛錬(たんれん)をし、真撃(しんし)に試合に臨んでいることへの評価と敬意の表れでしょう。
「挨拶」はもともと仏教語で、禅僧(ぜんそう)が問答(もんどう)を交(か)わして相手の覚りの深浅(しんせん)を試みることを言います。「挨」は「せまる」で浅い交流、「拶」は「すりよせる」の意味で深いところでの交流を言うそうです。いかに物が溢(あふ)れていようと、挨拶のない世界は貧しい世界です。
私がここにいますよ、そしてあなたの存在を認めていますよ、私たちはコミュニケーションしながら共に歩んでいきましょうという気持ちで、まず声をかけましょう。応(こた)えましょう。その音声と、それにともなう表情と姿勢とが、自分とその周りを明るく元気にします。元気な自立者同士の連帯が、相乗的(そうじょうてき)に人間を深く豊かにし、生きる力の源泉になります。友を信頼し尊敬することから、安心して「ともに」生きる世界が開けてきます。自立者として元気よく挨拶してほしいものです。