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会長のつぶやき

第六十六回

2024-10-02
 今年は新年早々大地震に見舞われ、あろうことか同じ地域で大洪水の被害を被(こうむ)るという、未曾有(みぞう)の大惨事が起こってしまいました。二つの大災害を受けた能登地方の方々にはお慰めする言葉もありません。ただそれぞれが出来る限りのことをして復興を願うのみです。

 近年の雨の降り方は、線状降水帯の発生による局地的な大雨により、各地に多大な被害をもたらすという特徴があるようです。
 私たちがより便利で快適な生活を限りなく追い求め、一部の国が豊かな暮らしを謳歌(おうか)するために大気を汚し自然を破壊し続けています。その結果としてもたらされた地球規模での気候変動や自然環境の変化が、地球上のあらゆる生き物の生存を危(あや)うくしている状況を作っているのでしょう。
 そのような危機的状況をよそに国際社会では、各国間の利害関係をめぐるエゴや主義の違いから、泥沼とも言える戦争・紛争が、いつ果てるともしれず続けられ、国民にはかり知れない苦痛と悲しみ、絶望感をもたらしています。

 『忿(こころのいかり)を絶(た)ち、瞋(おもえりのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。人皆、心有り。心各(おの)おの執(と)れること有。彼是(よみ)すれば則ち我は非(あしみ)す。我是(よみ)すれば則ち彼は非(あしみ)す。我、必ず聖に非ず。彼必ず愚(おろ)かなるに非(あら)ず。共にこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よく)・非(あしき)の理(ことわり)、詎(たれ)か能(よ)く定むべけん。相共に賢く愚かなること鐶(みみかね)の端(はし)無きが如し。是(これ)を以て、彼人(かれひと)、瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえ)りて我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖(いえど)も衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)え。』

【意訳】(心に起こる)気にそまないことを憤(いきどお)る心を抑(おさ)え、思い込みによる怒りを離れ、人のあやまちに腹を立ててはならない。人はそれぞれに思いや考えがある。人の心にはそれぞれに執着(しゅうちゃく・こだわり)がある。人を良し(正しい)とすれば自分の思いは悪し(誤り)となり、自分を良しとすれば人を悪しとする。自分はけっして聖人(間違いのない人間)ではない。相手もまた愚かな(間違いだけの)人間ではない。お互い是(良し〉・非(悪し)両方を持つ人間同士なのである。是非(善悪、良し悪し)の道理をどうして判定など出来ようか。共に賢く愚かであることは、鐶(かん・金属の丸い輪)の端(はし)がないようなものである。このことを心得て、人が腹を立てたとしても、我が身を振り返り過(あやま)ちがないかどうかを気にかけよ。自分が得心(とくしん)したとしても、周りの人と協調して行いなさい。

 この言葉は、聖徳太子の「十七条憲法、第十条」によるものですが、聞きなれない言葉だと思います。しかしこの教えは、国民不在の混迷する現代社会に一石を投ずる言葉ではないかと思われますので紹介します。
 聖徳太子は、高慢心(こうまんしん)を戒(いまし)め、人間はともどもに善悪、良し悪しを併(あわ)せ持つ人間であるということで「平等」なのであるという真理を説いておられます。
 私たちは、己に執(しゅう)することで相手を貶(おとし)めたり卑(いや)しめたり、時には排除しようとしたりします。お互いが「愚かさ」を謙虚(けんきょ)に認め「敬愛」の心で接したいものです。

『怨(うら)みは怨みによって止(や)むことはない。怨みを棄(す)ててこそ止む。』(釈尊の「前生物語」より)
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