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会長のつぶやき

会長就任

令和7年6月27日、当会で役員改選が行われ、五十嵐 司也が会長に就任しました。
よろしくお願いします。

※旧会長の「つぶやき」につきましては、当分の間掲載しておりますので、ご覧ください。

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会長 五十嵐 司也(いがらし もりや)

【生年月日】1949年(昭和24年)9月7日

【住まい】福島県会津若松市

【家族構成】3人家族

【経歴】大学卒業後、会津若松市役所に38年勤務。その後、会津鉄道株式会社で役員を11年、当会の監事として2年間務めて、会長へ就任。

【趣味】マラソン大会への参加
 ガンを患い、健康管理の一環として、ジョギングを始め、2008年に鶴ヶ城マラソンに参加。
 その後数々の大会に参加し、今年10月の水戸マラソンで95回目。早い機会に100回目の大会出場を目指します!!
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最終回(第七十二回)(前会長 武藤淳一)

2025-06-20
NEW
 私はこの度、6月27日を以て11年間努めさせていただいた、会津若松市社会福祉協議会会長を退任させていただくことになりました。副会長職を含めると、20年間社会福祉の分野でお手伝いをさせていただいたことになります。振り返ってみますと、いつの間にかこのような長い年月を経ていたことに、自分でも驚いています。
 この間、社協の事業運営に携わって下さった理事、監事、評議員の方々、各種の団体や個人の皆様、そして何よりも懸命に力を尽くしていただいた職員の皆様には、心より厚く御礼を申し上げます。
 このように多くの方々のお力添えのおかげをもちまして、支えられ、育てられ、今ここに都合(つごう)20年間にわたる社協生活の“卒業証書”をいただくことになりました。
 今私の手にある83年間の人生と、その中の重要な一部を占める社協での20年間の「時」が、宝石のように光り輝いています。「時」というものがこのように光り輝くものだということを、83年をかけて今やっと気付かせていただきました。
 私には、次に「人生の卒業」という一大事が待ちかまえています。「悠々自適(ゆうゆうじてき)」、「余生(よせい)」などという若い時のようなあり余る余分な時などありません。これからの一日一日が「人生の卒業」という一大事を迎えるためのかけがえのない一日一日となるのですから、いよいよ最後の学習に取り組まなければなりません。身のひきしまる思いです。
 
 この地球上に“いのち”が誕生したのは三十数億年も前のことだといわれています。ということは、この私がヒトとして生まれるのに三十数億年を要したということであり、以前にも以後にも二度と再び存在することのない、只一度の生涯を生きていることになります。まことに希有(けう)のことであり、「有ること難し」と言わざるを得ません。
 この私には、父母(2人)、祖父母(4人)、曽祖父母(8人)…10代(さかのぼ)ると1,024人、20代では1,048,576人という膨大な“いのち”の歴史があり(この中の一人でも欠けると私は生まれてこなかったことになる)、その歴史の中の営みの一瞬一瞬が、無限の条件に恵まれて成り立っている。その積み重ねが奇跡のように連続して初めて今に至っているのです。
 今まで口にしてきた三度三度の食事も、地球が存在していることも、太陽があり常に照らし続けたり、雨が降ることも、川や湖や海があることも、空気があることもすごいことです。
 家族がある、友人がいる、先生がいる、亡き人を含めてさまざまのひとから願われ助けてもらっている。よくよく考えてみれば、身の回りの一つ一つが、有ること難いこととして今この私に実現しています。自分の都合の善し悪しを超えて有ること難い人生であり、出会いです。
 半分有るのは、「ありがとう」の人には満足ですが、「当たり前」の人には不満にしか見えません。「当たり前」の人は何が起こっても、最大でもマイナスがゼロになるだけですが、「ありがとう」の人は、無限に喜びや満足が加わっていきます。「こどもを不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、何でも手に入れられるようにしてやることである」(ルソー)と言われます。
 ある町の教育委員会が、「かわいい子には□をさせよ」の空欄を小学生の親に問うと、圧倒的多数が「楽」と答えたそうです。天上界の様な環境を用意して、実は多くの喜びや希望を奪っていることの罪を知らなけれぱならないようです。
 「ありがとう」から「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」が出てきます。それが私たちを豊かにするのです。そのことに気付けないのは、幸福になる道を見失っていることのようです。
 
 長い問お付き合いをいただいてきました、社協HP「会長のつぶやき」コーナーも今回で終了ということになります。途中何度か「つぶやき」がもれなくなったこともありましたが、皆様の後押しのおかげで何とかここまでたどり着くことが出来ました。ご声援をいただいた方々に感謝申し上げて筆を置きたいと思います。長い間本当に有り難うございました。

第七十一回

2025-06-06
 今年の冬は、稀に見る豪雪に見舞われ、各地に大きな被害をもたらしました。しかし、過ぎ去ってみれば何事も無かったかのように、春爛漫(らんまん)の花に浮かれ、大型連休の行楽に走り回り、まさにこの世の春を満喫(まんきつ)する日々を過ごしています。
 このような快適な生活とは裏腹に、連日のように報道される犯罪の多発が気にかかります。
 特に目立つのが殺人や各種の詐欺(さぎ)事件の多さです。思い通りにならない不満を、周りの人を傷つけることで晴らそうとする実に身勝手な理由で、手当たり次第に殺傷する。また、地道に働いて報酬を得るより、人をだまして安易に大金を手に入れて安楽な暮らしを得ようとする風潮が、若い人たちを犯罪に駆り立てるという事件が連鎖的に起こっていることです。
 不当な手段で手に入れたお金や思い通りの境遇で、満足な人生を送ることなど出来るはずがありません。何十億年という時を(へだ)てて今この身に()けた尊い「いのち」を、自分の手で汚しダメにしている悲しむべき姿であることを、誰からも教えてもらえなかった。それは誠に不幸であったというほかありません。
 
 ある本の中で、「三間(さんかん)喪失(そうしつ)」という聞き慣れない言葉に出会いました。「三間」とは「時間・空間・仲間(人間(じんかん))」ということで、子供も大人も自分で安心できる時間も空間も仲間も持てないでいるという。この三つの「間」とは実は一体のもので、「つながり」や「関係性」を表している。つまり、「時と場と人」を共にすることによってはじめて「三間」が成り立つということのようです。
 ところが現実は、多くの人が自分だけの時間を自分だけの部屋や場所で自分一人で過ごそうとして、限りなく「個別化(こべつか)」の方向に向かっているようです。また、他の人と時と場を共にしていても、自分の世界に没入し他の人が視野に入らない。あるいは視野から排除したいようです。そして、個別化して自分の都合通りになっているつもりが、何かしら満たされない思いをいだいている。そういう傾向に進んでいることが現代社会の大きな課題の一つになっているようです。
 
 本の一節を紹介させていただきます。
 「私たちの成長は、特定期間だけのものでなく生涯続きます。また他者は競争相手ではなく共存相手です。いつどこで誰と生きればいいのかを、もし悩んでいるとすれば、「今ここに与えられている事実」からスタートして、あらゆるつながりに支えられて、現に今、私が生きてあることを見つめるところから始めましょう。たとえ不満足・不本意な現実に思えても、「今ここ」以外に私が生きる時もところもあり得ないし、求めても得られようはずがありません。私たちが人生でいちばんしてはならないことは、人生を途中で投げ出すこと、人生から降りることです。」
 
 私たちはいつも人生の岐路(きろ)にいますが、どの道へ行っても大事な人とであい、大事なことを学びます。どの人のどんな人生にも意味や価値があります。さらにその失敗ばかりの私が、多くの人から支えられていることを知った時の喜びがあります。
 今ここで私が、他のさまざまないのちあるものとともに、安心して学び、遊び、楽しみ、悲しみながら、互いに深まり合い高め合っていく。「今ここで私が」意欲をもって生き始めろ時、私を支え、私の独立と連帯を成り立たせるものとして三間(さんかん)が回復するのでしょう。豊かな三間の楽しさ気持ちよさを体感したいものです。

第七十回

2025-04-09
 先日、毎日新聞の「カルチャースコープ」という特集記事を読み、改めて日本人と言葉について考える機会をいただきました。以前にもこのHPで言葉の大切な役割について書いたことがありましたが、今回は、劇作家・演出家としてご活躍されている、「わかぎゑふ」という方の文章を引用させていただきながら、特に「一人称」について考えてみたいと思います。
 
〇私たちは小学生に上がる頃に親や学校の先生から「男の子なんだから僕って言いなさい」「女の子だから、私って言うのよ」と、性別に合った一人称を使うように教わる。日本人は男言葉、女言葉をそれぞれ当たり前に使う。
 他にも大人言葉、子供言葉、不良言葉、上流階級言葉――などいろいろあるが、誰も不思議に思ったことなどないだろう。
 しかし、英語なら「アイ」で済む一人称がこんなにたくさんある国は他にないということに気が付いた時に、私は大いに考えた。日本語学者、金水 敏氏はこの自分の性別や身分を表す言葉を「役割語」と名付けている。
 例えば見るからに高そうなスーツを着た素敵(すてき)な初老(しょろう)の男性が「私は医者です」と落ち着いた声で言えば「ああ、この人はお医者様なんだ」と周りもすぐに信用する。彼が医者という役割からはみ出さずに話しているからだ。
 しかし「俺は医者だぜ」と荒っぽい言い方をしたら「え?何この人、本当に医者なの?」と疑うだろう。「あたし、お医者様よ」なんて言い出したら完全に混乱するに違いない。
 
 確かに日本語の一人称は多種多様で、どの言葉を使うかによってその人の性別、立場、役割などを髣髴(ほうふつ)とさせろ働きがあるようです。
以前、長年アナウンサーの職にあった方の講演で、『一人称によって、そのあとに続く言葉が決まってくる。例えば「私」という言葉の後には「ご飯を食べました」あるいは「食事は済ませました」となり、決して「飯食った」とはなりません。』ということを聞いたことがあります。
 このように、自分を表す一人称(役割語)は、「私」「僕」「俺」「あたし(あたい)」「うち」「わし」と多彩であると同時に、相手に何も説明しなくても自分の立場や性別などを表現できる誠に便利な言葉になっており、日本特有の文化となっています。
 
〇しかし、この便利さを裏側から見たら、人の立場を決めつけ、利用したり、閉じ込めたりしてはいないだろうか?ひいては日本のジェンダーフリー化を阻(はば)む大きな伽(かせ)になっていないだろうか?
 近年知り合った一人の青年から、かつて自分が女の子であり、子供の頃に「私」と言わされることに苦しんだと聞いた。彼は心の底から「僕」という日を待っていた。両親を口説き、大変な手術を受け、名前を変え、戸籍を変更するまでの長い闘いを選んだ末に言えた「僕」という一人称は、彼にとって勲章のように輝いていたにちがいない。
 一人称による文化の陰で、必要のない苦しみを抱えている人もいる。ことばとは本当に便利で恐ろしいものだとつくづく思う。(中略)
 「僕」と「私」の間に流れる深くて大きな河を日本人はいつか渡れるのだろうか。誰もが同じ一人称で喋(しゃべ)るとしたら、いったい何が一番適していると思いますか?
 
 この一人称に限らず、日本語の優れた働きの陰に、このような落とし穴が潜んでいたことに気づかされた思いです。皆様はどのように感じられたでしょうか。

第六十九回

2025-01-20
 新年明けましておめでとうございます。
 元日早々に起きた大震災で始まった昨年は、残念ながら災害の多い年となってしまいました。
 甚大な被害の復興もままならない状態で、この一年を過ごされた方々には、お慰めの言葉もありません。ただただ一日も早い復旧、復興を願うばかりです。
 さて、昨年を振り返ってみますと、さまざまな社会状況の影響を強く受け、十分な成果を上げたとはいえない年になってしまったように思います。
 新型コロナウイルスの感染もまだ終息には至らず、時折感染者の情報を耳にしました。加えてインフルエンザの流行もあり、予防対策は欠かせない状態でした。
 少子高齢化が進む中、若い世代(中でも女性)の県外への転出が増加傾向にあり、県全体での人口減少が危惧されているようです。
 また、核家族化による単身及び高齢世帯の増加による社会的孤立や生活困窮の問題も深刻化しています。その対策のひとつとしてのフードバンク事業も、生活協同組合コープあいづ様他、各企業や個人の方々の多大なるご協力によって何とかしのいでいるという状況にあります。
 地球規模での大気汚染による気候への影響は、年々深刻さを増しています。いつ起こるかわからない災害への備えも心がけておかなければなりません。
 この件につきましては、ライオンズクラブ国際協会332-D地区様より災害時対応備品及び収納用倉庫一式の寄贈を受け、北会津保健センター敷地内に設置させていただきました。災害発生時には大きな力となるものと、大変心強く感謝致しておるところであります。
 このほかにも市民の皆様からは、折にふれ数多くの金品をお寄せいただき、事業運営に役立たせていただきましたこと、ここに厚く御礼を申し上げます。誠に有難うございました。
 刻々と変化する社会情勢の中で、誰もが安心して暮らせるよう、地域で支え合える仕組みを創っていく「地域共生社会」の実現に向け、今年も皆様と共に歩んでまいりたいと考えております。
 行政と一体となり、令和3年度より進めてまいりました「第2期会津若松市地域福祉計画、会津若松市社会福祉協議会地域福祉活動計画」は、令和7年度が最終年度となります。これまでの活動の成果を検証しつつ、さまざまな課題の克服に努めてまいりたいと思います。
 計画の基本理念である「誰もが安心して暮らせるよう地域で支え合うあいづわかまつ」の実現に向けて、旧に倍する皆様のご協力ご支援を賜わりますようお願いを申し上げ新年のご挨拶とさせていただきます。

第六十八回

2024-12-10
今年もあとわずかとなりました。年末を迎えると皆一様に来し方を振り返り、喜んだり悲しんだりしながら年の暮を過ごし、あたふたと新しい年に思いをはせ、次の年が良い年になるようにと「縁起物」に願いを託して祈りを捧げます。

 この「縁起」という言葉は、釈尊(おしゃか様)が覚られた真理「縁起の理法」を指す言葉で、仏教の根本原理のことなのです。
 縁起とは「縁によって起こる」ということで、あらゆるもの(こと)はその物事が単独で成り立つことはあり得ず、すべてが関係性の中で存在しているということを意味しています。
 私たち一人ひとりも、もちろん関係性の中に生存しています。あらゆる物事は、すべてが関係し合い、補完(ほかん)し合い、相互に支え合って存在しているのです。私に関係ないものなどひとつもないのです。ことばを変えると、すべてはつながっているのです。私は私以外のすべてに支えられ、同時にすべてを支えているのです。
 しかし、関係性の中にあるということは、物事は必ずしも自分の思い通りには進まないことを意味します。すべては認識することのできない諸々(もろもろ)の縁(条件)によって、現在も未来も成り立つわけですから、何事も自分の都合よくなどなるはずがありません。それを「不如意(ふにょい:意の如くならず)」と言います。

 現代は「無痛(むつう)文化」とも言われ、苦痛の少ないことを価値と見ます。しかし共に生きるとは不如意を生きることです。摩擦(まさつ)も意見の違いもイヤなことも起こってきます。そこで自分の思いを通すことは、結局自他ともに苦しむ様相(ようそう)となっていきます。
 生きる中で、自分の都合の良い人と別れ(愛別離苦(あいべつりく)・愛するものと別れなければならない苦しみ)、都合の悪い人と会わなければなりません(怨憎会苦(おんぞうえく)・恨んだり憎んだりするものと会わなければならない苦しみ)。必ずしも求めた通りの結果にはなりません(求不得苦(ぐふとくく)・求めて得ざる苦しみ)。それが現実です。ならば目を逸(そ)らさないことです。「思い通りにはならないが、なるようにはなる」のです。

 私も年を重ねることで気付かされたことですが、人間は二つの知恵をいただいていると思います。
 一つは加齢とともに衰(おとろ)えていく知恵です。記憶に関することや、新しい物事に対応する知恵です。そこばかりを気にかけて嘆(なげ)きますが、もう一つの知恵があるようです。
 それは、加齢とともに深まっていく知恵です。不如意の現実を生き抜く中で、苦しみ、悩み、傷つき、考え、振り返り、自他を責めたりしながら深まっていくものの見方、受けとめ方、考え方などです。
 その中から私が私に生まれたこと、生きること、老いること、病(や)むこと、死ぬことなどを考え、夫婦とは、親子とは、自分とは、他者とは・・・等々の問いを常に抱え、折に触れて感じること、思いつくことなどを味わうことになります。
 不如意の現実をきちんと受け止めることが、目覚めのスタートです。思い通りにならない現実から逃避(とうひ)せず、そこで感じ考える、そのことが私を本当の私にしてくれるのでしょう。

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