本文へ移動

会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
RSS(別ウィンドウで開きます) 

第四十八回

2022-06-08
「人間は一生を通して誰になるのでもない、自分になるのだ」という言葉に出会いました。
 まず気付いたことは、この"自分になる"ということが、実に大変な大仕事だということです。

 美空ひばりという方がおられました。生前、非常に嫌った言葉があったそうです。それは「あの人は器用だ」と言われることです。
子供のときから大人の歌を上手に歌えたのですから、私もそう思っていました。
 しかし、考えてみれば、人知れず重ねてきた苦労努力を私たちはほとんど知りません。確かに天性の素質はあったのですが、それだけで歌手になれるわけではありません。それこそ血の滲(にじ)むような努力を知らないで、ただ天才とか器用とかで片付けられることを嫌ったのでしょう。努力すれば誰でもなれるかというとそうはいかないことも確かです。
 私がどれだけ頑張っても大谷選手や美空ひばりさんにはなれないことは言うまでもないことなのですが、問題はそんな特別の人に限らず、あの人のようになれと言われたら、それが誰であろうとこれは大変難しいことだということです。結局自分は自分にしかなれないのです。
 では、自分が自分になることは易(やさ)しいのでしょうか。

 おたまじゃくしは、放っておいても蛙(かえる)になるという一大変身を見事に遂(と)げます。学校へ行って習うわけでもなく、親が手を取って教育するわけでもないのです。放っておいてもちゃんと蛙になります。鮭(さけ)なども孵化(ふか)した時にはもう親はいないのです。けれども四年ほどすると、ちゃんと一人前の鮭になって帰ってきます。
 ところがチンパンジーになると、子どもの時に母親から乳を飲ませてもらった経験がないと、子供を産んでも乳を飲ませてやることがわからず、飢(う)え死にさせてしまうそうです。つまりおたまじゃくしや鮭とは違うのです。高等動物になるほど、生まれてから親の姿に出会い、学ぶということがなければ一人前になれないということなのです。
 ですからチンパンジーがそうであるように、人間が本当の人間に成る、母なるがゆえに本当の母になる、夫婦であるからこそ本当の夫婦になるということは、ただなれることではない。よくよくそういう縁に会い、学ばなければ一生ならないで終わる。いや、なれないということさえ知らないで終わってしまう。
 そうすると自分が自分になるということは、決して簡単なことではないようです。人間は、真実の教えに遇(あ)えてこそ始めて自分になれる。人間に成れるのです。
 このように同じ動物でも、おたまじゃくしや鮭は、学習しなくても蛙になれるし鮭になれます。ところが高等動物になるほど、見て習わなかったら一人前になれない。その中でも、最も見て習う学習を抜きにして一人前になれないのが、私達人間なのです。
 人間に生まれ、人間の体をもって生まれてきているから、特別の教えに遇(あ)わなくても自然になれる、自己成就できると思っているなら、それは人間というものを、おたまじゃくしや鮭と同じものだと考えていることになるのではないでしょうか。

第四十七回

2022-05-11
 新年度が始まってひと月が経ちました。連休中は、コロナから解放されたかのように、人々が行楽(こうらく)を満喫(まんきつ)していました。このしわ寄せが来ないことを祈るばかりです。

 学校や社会の一年生の皆さんは、新天地での生活の疲れが出る頃といわれますが、しっかり休養をとって身心のリフレッシュをはかり、力強い歩みを続けてほしいと願っています。

 環境・条件など、いろいろなことの変化や違いに戸惑いながらも、新しい友や先輩との出会いなど様々な物事が、今までとは違って見えることに驚きをもって気づかされているのではないでしょうか。
 逆に先輩となった人も、少し前までは自分のことだけで精一杯だったのに、知らぬ間に後輩のことや全体のことに目を向けている、そういう自分を発見することもあるのではないかと思います。

 自分はそのままで変わらないつもりでも、他との関わりの中で必ず変化します。自分が歩んできた過去の全てと異なる現在(いま)を経験しているのです。
 ある方の詩に「まっさらな朝」という言菓がありますが、人類始まって以来誰も経験したことのない朝を、私たちは毎日迎えているのです。
 その新しいものとの新鮮な出会いを通して得られる、他者(差異ちがい)の発見という驚きを伴った経験が、私たちの次の人生(未来)への意欲となるのでしょう。
 こんな発想・見方・考え方・手順・組み合わせ・整理の仕方があったのか。こういう仕組み(構造)・論理になっていたのか。人間はここまで出来るのか。百メートルを10秒を切って走ることなど出来ないと思われていたが、ひとたびその壁が破られると世界中で続々と同様の記録が出、更新されていきます。不思議だと思いますが、できるという事実に出会うと、驚くとともに並び超えられていくのです。
 それまでは当然と思われていたことが、覆(くつがえ)されていく快(こころよ)さを経験してほしいものです。それは自分が開かれていく快感です。脱皮というか快い変化、成長です。
 そして、そこで改めて人間に出会うのです。こんなに違っているけれども人間同士なのだという感動が開かれます。即ち人と違ってしか私は成り立たないし、私は私としてしか生きられないことに気づかされます。しっかりと自分に向き合い、この私でよかったと安心できる私(自己)を発見し、私を引き受けた時にバラバラが成立し、いっしょの世界が開けてきます。

 釈尊(しゃくそん「おしやか様」)の「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉は、私が私として尊いということで(自分だけが尊いということではありません)、そういう独立者としての私として生きるからこそ、他のあらゆる人と環境を共にし、連帯して生きていける。新人も先輩も、共に生きていける世界が開かれてくるのでしょう。

第四十六回

2022-04-15
 春四月、花の季節とともに年度変わりの気ぜわしい時でもあります。
学校や職場では、卒業・入学・就職・人事異動など、それぞれの人生の節目となる大事な出発のときでもあります。
 当社協でも四名の新入職員を迎え、部署の配置換えも行われ心新たに新年度のスタートを切りました。ただ残念なことに、いまだにコロナ感染が収まらず事業運営に支障をきたしていますが、できる限りの力を尽くしていきたいと思っています。

 人類の歴史の中で、この地球上に戦争のない時はないほど常にどこかで争いが起き、多くの人々が深い悲しみの中で生きざるを得ないということが続いています。
 考えてみると、人間ほど不可解な生き物はいないようです。ヒトという生き物は、時に美しく輝き、時には信じられないような残酷(ざんこく)な行為をしかも平然(へいぜん)と行う。何とも捉(とら)えどころのない不可思議な存在です。
 だからこそ人類は、その歴史の中で常に「人間とは何か」を問い続け、そしてその答えの一つとして生み出してきたものが、「宗教」であり「教育」であろうと思います。
 「教育」とは「人間教育」であり、その理念は「自己の信念の確立」であり、ともどもに人間性豊かな自覚的人間に成っていく歩みです。つまり真の自立者(独立者)となることだと思います。
 例えば、親からの自立というと親への反抗とか、親とあまり話さなくなることのように思われるかもしれません。しかし、実は親に話せない秘密を打ち明けられる友だちができて、はじめて「親離れ」とか「自立」ということになるのであって、親への秘密をただ一人抱(かか)えてどうすることもできないというのは、いわば「孤立(こりつ)」です。自分の悩みなどの隠(かく)し事を打ち明けられる友だちができた時が本当の自立です。つまり、その勇気と支え合い分かり合える友が、自立の中身なのです。自立(独立)と連帯・共感は同時なのです。
 独(ひと)りぼっちではないという自覚に立って、安心して友と共に歩んでいく、他とコミュニケーションしながら生きるということです。出会いとふれあいを大切にし、互いに認め合い、尊敬しあう関係の中で高めあっていくのです。そのために他人に不快感を与えず、ルールや社会常識を尊重し、他人の都合や立場・見方・志向などを認めていくことが大切です。
 そのコミュニケーションの出発点として「挨拶」があります。挨拶は、相手の存在を認め敬意を払う表現であるとともに、自らの存在主張であり、さらに相手と挨拶というひと時を共有することになります。人と人を結ぶ懸(か)け橋といってもいいでしょう。
 あらゆる国や民族に挨拶の文化があり、日本のように一歩下がってお辞儀する国や、一歩近づいて握手する習慣の国もあります。私たちは、食べ物にまで「いただきます」と挨拶する文化をもっています。また、武道やスポーツも礼(挨拶)に始まり礼に終わるのは、自分もそうだが対戦相手も自己鍛錬(たんれん)をし、真撃(しんし)に試合に臨んでいることへの評価と敬意の表れでしょう。

 「挨拶」はもともと仏教語で、禅僧(ぜんそう)が問答(もんどう)を交(か)わして相手の覚りの深浅(しんせん)を試みることを言います。「挨」は「せまる」で浅い交流、「拶」は「すりよせる」の意味で深いところでの交流を言うそうです。いかに物が溢(あふ)れていようと、挨拶のない世界は貧しい世界です。
 私がここにいますよ、そしてあなたの存在を認めていますよ、私たちはコミュニケーションしながら共に歩んでいきましょうという気持ちで、まず声をかけましょう。応(こた)えましょう。その音声と、それにともなう表情と姿勢とが、自分とその周りを明るく元気にします。元気な自立者同士の連帯が、相乗的(そうじょうてき)に人間を深く豊かにし、生きる力の源泉になります。友を信頼し尊敬することから、安心して「ともに」生きる世界が開けてきます。自立者として元気よく挨拶してほしいものです。

第四十五回

2022-03-01
 今年も各地で成人式が行われました。
このコロナ禍の中で制約を受けての式典のようでしたが、それでも「新成人」と呼ばれ、晴れやかな笑顔で式に臨む姿は、初々しくまた頼もしくも感じられました。
 国では「おとな」になる年齢を18歳に引き下げるということで、さまざまな議論がなされているようです。社会生活の中で「おとな」として扱われるということは、実に多くの責任ある行動が求められます。18歳という年齢が、そのことに耐えうるものかどうかは意見の分かれるところでしょう。

 改めて「成人式」とはどういう行事なのか、考えてみたいと思います。
 「成人」とは、「人と成る」すなわち「人間完成」ということですが、現実には20歳で文字通りの「人間完成」とは言えないようです。
ではなぜ20歳を「成人式」として祝うのでしょうか。
 ある先生の言葉をお借りすると、"それまで親や先生や周りの大人たちによって成長させられてきた者が、「自分の意志で、人間として完成する方向に歩み始めるぞ」と決意をする行事"だということです。
 自分が人間として生まれたことの意味や価値に気づき、また周りの全ての事柄とのかかわりの中で生きていることを自覚して、「人間成就」に向かって歩みを始める決意をする。なりたい自分になるために、自己実現のためにと言ってもいい、その歩みの原動力として自分の意志・意欲を呼び覚ます。そういう一つの区切り目となる自覚のための行事だろうと思います。

 社会人(おとな)の基本は「返事、挨拶、後始末」であると聞いたことがあります。
 例えば掃除一つをとってみても、部屋がいかにきれいになったかということはもちろん大事ですが、それよりも意欲をもって掃除しようとする人、自主的に掃除する人、少しでもきれいになるように掃除しようとする人、汚さない人という「人」になることが求められているのでしよう。
 他人の目や評価や厳しい指導によってということから、自分で判断して自発的に掃除することを思いつく人に成ってほしいものです。
 「成人」ということは、年齢に関わりなくいくつになっても、自分の課題を意識して「人と成る人」として歩み続けることだろうと思います。

第四十四回

2022-02-01
 一時収まりかけた新型コロナウイルス感染でしたが、このところ変異したオミクロン株により、再び急激な感染の広がりを見せています。感染経路が不明な(発表されない?)状態で、子どもたちに蔓延(まんえん)し、特に仕事を持つ母親に大きな不安と負担を強いているようです。
 国をはじめとする行政や医療機関では、その対策に必死で取り組んでいただいておりますが、私たちもどれだげその指示に従って協力(これは他人ごとではないのですが・・・)していけるかが問われていると思います。
 国内外で、"ワクチンを接種しない自由""マスクを着用しない自由"(持病等は別)などと声高に主張している人々の姿が報じられていますが、そういうことが「自由」の中身なのでしょうか。カラオケや飲み会への参加など、コロナの感染はその人個人だけで済(す)む問題なのでしょうか・・・。

 この頃、見ず知らずの他人を巻き込んでの、いわれのない殺人や放火事件が続けざまに起きています。自分の思い通りにならない不平不満を、他人を巻き添えにして晴らそうとする身勝手な犯行は、決して許されない所業(しょぎょう)であり、たまたまそこに居合わせて犠牲になった人たちにはかける言葉もありません。

 仏教に説かれる、基本的生活規範(きはん)として「五戒(ごかい)」が教えられています。その第1は「不殺生(ふせっしょう)」です。生きようとするものを殺したり傷つけたりすることから遠ざかれという戒(いまし)めです。
 「殺生」はまた五つに分けられています。
 1、「自殺(じせつ)」 - 自らを殺してはいけないということ。
   振り返ってみると、自分の中にあるいきいきと生きようとする願いを、自分で妨げているということはないでしょうか。

 2、「他殺(たせつ)」 - 他人のいきいきと生きたいという願い、希望を殺す(奪う)こと。
   嫌(いや)がらせ、いじめ、誹誇中傷(ひぼうちゅうしょう)、パワハラ、差別などによって相手の心を傷つけ、生きる意欲や希望を無意識にでも奪ってしまったことはないでしょうか。

 3、「方便殺(ほうべんせつ)」 - 直接に手を下すことはなくても、他人や方法を使って辛(つら)い目に合うように仕向(しむ)けること。
   例えば、振り込め詐欺(さぎ)など。

 4、「歓喜殺(かんぎせつ)」 - 他人が死んだり、生きる意欲をなくしたりすることを喜ぶということ。「愉快(ゆかい)犯」。
   例えば、戦争は、敵国の兵士や国民が死に、傷つき、敗れることを望み喜ぶこともあるのでしょう。

 5、「呪殺(じゅせつ)」 - 恨(うら)んだり憎(にく)んだりする人の死を願うこと。
   「あんな人いなくなればいいのに」「あいつさえいなくなれば幸せになるのに」などと思ったことはありませんか。

 自分を深く見つめてみると、誰でも思い当たることの一つや二つはあるのではないでしょうか。私たちが生きるということは「ともに生きる」ということなのですが、そのことに気付くことは意外に難しいことのようです。

▼お気軽にお問い合わせください

 お問い合わせフォームはこちら
TEL. 0242-28-4030
お電話でのお問い合わせもお待ちしています
社会福祉法人
会津若松市社会福祉協議会
〒965-0873
福島県会津若松市追手町5-32
TEL.0242-28-4030
FAX.0242-28-4039
E-mail aizu@awshakyo.or.jp
TOPへ戻る