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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第四十六回

2022-04-15
 春四月、花の季節とともに年度変わりの気ぜわしい時でもあります。
学校や職場では、卒業・入学・就職・人事異動など、それぞれの人生の節目となる大事な出発のときでもあります。
 当社協でも四名の新入職員を迎え、部署の配置換えも行われ心新たに新年度のスタートを切りました。ただ残念なことに、いまだにコロナ感染が収まらず事業運営に支障をきたしていますが、できる限りの力を尽くしていきたいと思っています。

 人類の歴史の中で、この地球上に戦争のない時はないほど常にどこかで争いが起き、多くの人々が深い悲しみの中で生きざるを得ないということが続いています。
 考えてみると、人間ほど不可解な生き物はいないようです。ヒトという生き物は、時に美しく輝き、時には信じられないような残酷(ざんこく)な行為をしかも平然(へいぜん)と行う。何とも捉(とら)えどころのない不可思議な存在です。
 だからこそ人類は、その歴史の中で常に「人間とは何か」を問い続け、そしてその答えの一つとして生み出してきたものが、「宗教」であり「教育」であろうと思います。
 「教育」とは「人間教育」であり、その理念は「自己の信念の確立」であり、ともどもに人間性豊かな自覚的人間に成っていく歩みです。つまり真の自立者(独立者)となることだと思います。
 例えば、親からの自立というと親への反抗とか、親とあまり話さなくなることのように思われるかもしれません。しかし、実は親に話せない秘密を打ち明けられる友だちができて、はじめて「親離れ」とか「自立」ということになるのであって、親への秘密をただ一人抱(かか)えてどうすることもできないというのは、いわば「孤立(こりつ)」です。自分の悩みなどの隠(かく)し事を打ち明けられる友だちができた時が本当の自立です。つまり、その勇気と支え合い分かり合える友が、自立の中身なのです。自立(独立)と連帯・共感は同時なのです。
 独(ひと)りぼっちではないという自覚に立って、安心して友と共に歩んでいく、他とコミュニケーションしながら生きるということです。出会いとふれあいを大切にし、互いに認め合い、尊敬しあう関係の中で高めあっていくのです。そのために他人に不快感を与えず、ルールや社会常識を尊重し、他人の都合や立場・見方・志向などを認めていくことが大切です。
 そのコミュニケーションの出発点として「挨拶」があります。挨拶は、相手の存在を認め敬意を払う表現であるとともに、自らの存在主張であり、さらに相手と挨拶というひと時を共有することになります。人と人を結ぶ懸(か)け橋といってもいいでしょう。
 あらゆる国や民族に挨拶の文化があり、日本のように一歩下がってお辞儀する国や、一歩近づいて握手する習慣の国もあります。私たちは、食べ物にまで「いただきます」と挨拶する文化をもっています。また、武道やスポーツも礼(挨拶)に始まり礼に終わるのは、自分もそうだが対戦相手も自己鍛錬(たんれん)をし、真撃(しんし)に試合に臨んでいることへの評価と敬意の表れでしょう。

 「挨拶」はもともと仏教語で、禅僧(ぜんそう)が問答(もんどう)を交(か)わして相手の覚りの深浅(しんせん)を試みることを言います。「挨」は「せまる」で浅い交流、「拶」は「すりよせる」の意味で深いところでの交流を言うそうです。いかに物が溢(あふ)れていようと、挨拶のない世界は貧しい世界です。
 私がここにいますよ、そしてあなたの存在を認めていますよ、私たちはコミュニケーションしながら共に歩んでいきましょうという気持ちで、まず声をかけましょう。応(こた)えましょう。その音声と、それにともなう表情と姿勢とが、自分とその周りを明るく元気にします。元気な自立者同士の連帯が、相乗的(そうじょうてき)に人間を深く豊かにし、生きる力の源泉になります。友を信頼し尊敬することから、安心して「ともに」生きる世界が開けてきます。自立者として元気よく挨拶してほしいものです。

第四十五回

2022-03-01
 今年も各地で成人式が行われました。
このコロナ禍の中で制約を受けての式典のようでしたが、それでも「新成人」と呼ばれ、晴れやかな笑顔で式に臨む姿は、初々しくまた頼もしくも感じられました。
 国では「おとな」になる年齢を18歳に引き下げるということで、さまざまな議論がなされているようです。社会生活の中で「おとな」として扱われるということは、実に多くの責任ある行動が求められます。18歳という年齢が、そのことに耐えうるものかどうかは意見の分かれるところでしょう。

 改めて「成人式」とはどういう行事なのか、考えてみたいと思います。
 「成人」とは、「人と成る」すなわち「人間完成」ということですが、現実には20歳で文字通りの「人間完成」とは言えないようです。
ではなぜ20歳を「成人式」として祝うのでしょうか。
 ある先生の言葉をお借りすると、"それまで親や先生や周りの大人たちによって成長させられてきた者が、「自分の意志で、人間として完成する方向に歩み始めるぞ」と決意をする行事"だということです。
 自分が人間として生まれたことの意味や価値に気づき、また周りの全ての事柄とのかかわりの中で生きていることを自覚して、「人間成就」に向かって歩みを始める決意をする。なりたい自分になるために、自己実現のためにと言ってもいい、その歩みの原動力として自分の意志・意欲を呼び覚ます。そういう一つの区切り目となる自覚のための行事だろうと思います。

 社会人(おとな)の基本は「返事、挨拶、後始末」であると聞いたことがあります。
 例えば掃除一つをとってみても、部屋がいかにきれいになったかということはもちろん大事ですが、それよりも意欲をもって掃除しようとする人、自主的に掃除する人、少しでもきれいになるように掃除しようとする人、汚さない人という「人」になることが求められているのでしよう。
 他人の目や評価や厳しい指導によってということから、自分で判断して自発的に掃除することを思いつく人に成ってほしいものです。
 「成人」ということは、年齢に関わりなくいくつになっても、自分の課題を意識して「人と成る人」として歩み続けることだろうと思います。

第四十四回

2022-02-01
 一時収まりかけた新型コロナウイルス感染でしたが、このところ変異したオミクロン株により、再び急激な感染の広がりを見せています。感染経路が不明な(発表されない?)状態で、子どもたちに蔓延(まんえん)し、特に仕事を持つ母親に大きな不安と負担を強いているようです。
 国をはじめとする行政や医療機関では、その対策に必死で取り組んでいただいておりますが、私たちもどれだげその指示に従って協力(これは他人ごとではないのですが・・・)していけるかが問われていると思います。
 国内外で、"ワクチンを接種しない自由""マスクを着用しない自由"(持病等は別)などと声高に主張している人々の姿が報じられていますが、そういうことが「自由」の中身なのでしょうか。カラオケや飲み会への参加など、コロナの感染はその人個人だけで済(す)む問題なのでしょうか・・・。

 この頃、見ず知らずの他人を巻き込んでの、いわれのない殺人や放火事件が続けざまに起きています。自分の思い通りにならない不平不満を、他人を巻き添えにして晴らそうとする身勝手な犯行は、決して許されない所業(しょぎょう)であり、たまたまそこに居合わせて犠牲になった人たちにはかける言葉もありません。

 仏教に説かれる、基本的生活規範(きはん)として「五戒(ごかい)」が教えられています。その第1は「不殺生(ふせっしょう)」です。生きようとするものを殺したり傷つけたりすることから遠ざかれという戒(いまし)めです。
 「殺生」はまた五つに分けられています。
 1、「自殺(じせつ)」 - 自らを殺してはいけないということ。
   振り返ってみると、自分の中にあるいきいきと生きようとする願いを、自分で妨げているということはないでしょうか。

 2、「他殺(たせつ)」 - 他人のいきいきと生きたいという願い、希望を殺す(奪う)こと。
   嫌(いや)がらせ、いじめ、誹誇中傷(ひぼうちゅうしょう)、パワハラ、差別などによって相手の心を傷つけ、生きる意欲や希望を無意識にでも奪ってしまったことはないでしょうか。

 3、「方便殺(ほうべんせつ)」 - 直接に手を下すことはなくても、他人や方法を使って辛(つら)い目に合うように仕向(しむ)けること。
   例えば、振り込め詐欺(さぎ)など。

 4、「歓喜殺(かんぎせつ)」 - 他人が死んだり、生きる意欲をなくしたりすることを喜ぶということ。「愉快(ゆかい)犯」。
   例えば、戦争は、敵国の兵士や国民が死に、傷つき、敗れることを望み喜ぶこともあるのでしょう。

 5、「呪殺(じゅせつ)」 - 恨(うら)んだり憎(にく)んだりする人の死を願うこと。
   「あんな人いなくなればいいのに」「あいつさえいなくなれば幸せになるのに」などと思ったことはありませんか。

 自分を深く見つめてみると、誰でも思い当たることの一つや二つはあるのではないでしょうか。私たちが生きるということは「ともに生きる」ということなのですが、そのことに気付くことは意外に難しいことのようです。

第四十三回(年頭挨拶)

2022-01-06
 新年明けましておめでとうございます。
 令和四年の新春は、寒さの厳しい雪のお正月となりましたが、皆様方におかれましては、どのような元旦を迎えられたでしょうか。
 このコロナ禍による長期自粛生活により、精神的にも経済的にも辛い不自由な生活を強いられている方々には心よりお見舞い申し上げます。
 県内各地では、感染も減少し安心しかけたところでしたが、また新たなウイルスによる感染が広がりはじめてしまいました。この分では、今年も不本意ながら、予防対策の手を緩めずに取り組まなければならない状況に変わりはないようです。
 昨年も本会では、すべての事業において規模を縮小し、感染予防に努めながら事業を推進して参りました。おかげ様をもちまして、職員全員が持てる力を結集して事業に取り組み、それなりの成果を上げることができたと自負しております。これもひとえに市民の皆様のご支援ご協力があってのことと、誠に有り難く、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

 さて、私たちを取り巻く社会情勢は、少子高齢化による人口減少傾向が進む中、人と人とのつながりの希薄化が心配されています。
さらに、コロナ禍がそれに拍車をかけるように、私たちの暮らしに大きな影響を及ぼしています。
 そのような状況を少しでも改善するために、地域の力で地域内の福祉課題を掘り起こし、自分たちの力で解決が難しい問題は、行政や社協につなぐという役割を担っていただく"地区社協"の設置に取り組んでおります。
 幸いにも昨年10月謹教地区に、市内5カ所目となる「謹教ふれあいネットワーク」が設立されました。このことは、今後他地区での設立に向けて弾みがつくと同時に、地域での福祉活動に大きな力となることが期待されるところであります。

 コロナ感染の収束が見えない状況ではありますが、今年も皆様方のご要望に少しでも応えられる社協を目指して、職員一同真撃(しんし)に課題に取り組んでいく所存(しょぞん)であります。
 市民の皆様には更に一層のご理解とご協力をお願い申し上げるとともに、一日も早いコロナ感染収束を願いまして新年のご挨拶とさせていただきます。

第四十二回

2021-12-20
 ここ数年地球温暖化の影響と思われる災害が頻繁(ひんぱん)に起き、その度に甚大(じんだい)な被害を被(こうむ)っています。世界中の指導者が、その対策について議論を重ねていますが、結局は自国の利益を最優先する立場を離れることはできないようです。
 私たちが、より便利で快適な生活を求め、その欲望を満たそうとすればするほど、地球やそこに生きる命を脅(おびや)かす方向へと突き進まざるを得ないという結果を招いています。人類の発展が、好むと好まざるとにかかわらず、すべての存在を危(あや)うくしてしまうことを、もはや止めることはできないのでしょうか。

 以前「不如意(ふにょい)」(意の如くならず、思い通りにならない)ということについて書いたことがありました。
 仏陀釈尊が覚(さと)られた真理は、「縁起(えんぎ)の理法(りほう)」といわれる仏教の根本原理です。「縁起」とは「縁によって起こる」ということで、あらゆる物事は、どんな事でもそのことだけ単独で存在するということはあり得ません。全て関係し合うことで成り立っているということです。私たち一人ひとりも勿論(もちろん)関係性の中に生存しています。世の中に私に関係ないものなどないのです。言い換えると、全てはつながっているのです。私は、私以外の全てに支えられ、そして支えているのです。
 しかし、関係性の中にあるということは、物事は必ずしも自分の思い通りには進まないことを意味します。
 自分では知ることもできない数多(あまた)の条件(縁)によって、現在も未来も成り立つわけですから、自分に都合良くばかりになるはずがありません。それを「不如意」と言います。
 天気一つ思い通りになりません。降る条件が整えば雨が降り、照る条件になれば晴れます。ですから私たちが人生を生きるとは、不如意を生きることになります。そして、私たちの都合や願望と、不如意である現実とのギャップが「苦」となります。釈尊が「人生は苦なり」と語られたのは、不如意の現実を思い通りにせずには収まりがつかない私たちを、言い当てられた言葉なのでしょう。

 親も子も互いに選ぶことはできません。老化せずに長生きしたいといいますが、できるでしようか?不便や不快や不足は価値が低いからと改善しようとし、不如意に直面することを少なくしようと努めてきました。
 「ともに生きる」とは、不如意を生きることです。目を逸(そ)らさないことです。「思い通りにはならないが、成るようには成る」のです。

 不如意の現実をきちんと受け止めることが、目覚めのスタートです。思い通りにならない現実から逃避(とうひ)せず、そこで感じ、考える。そのことが私を本当の私にしてくれるのでしょう。

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