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会長のつぶやき

会長就任

令和7年6月27日、当会で役員改選が行われ、五十嵐 司也が会長に就任しました。
よろしくお願いします。

※旧会長の「つぶやき」につきましては、当分の間掲載しておりますので、ご覧ください。

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会長 五十嵐 司也(いがらし もりや)

【生年月日】1949年(昭和24年)9月7日

【住まい】福島県会津若松市

【家族構成】3人家族

【経歴】大学卒業後、会津若松市役所に38年勤務。その後、会津鉄道株式会社で役員を11年、当会の監事として2年間務めて、会長へ就任。

【趣味】マラソン大会への参加
 ガンを患い、健康管理の一環として、ジョギングを始め、2008年に鶴ヶ城マラソンに参加。
 その後数々の大会に参加し、今年10月の水戸マラソンで95回目。早い機会に100回目の大会出場を目指します!!
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第六十ニ回

2023-11-29
 新型コロナウイルス感染症も第5類に移行以来、人々の行動に大きな変化が表れてきました。3年数ケ月に及ぶ不自由さから解放された喜びにあふれているように見えます。しかし完全に感染が止まったわけではなく、まだ予防対策に手を緩(ゆる)めるわけにはいかないようです。
 それでも以前に比べれば感染力は弱まり、元の生活に戻りつつあることは確かなようです。おかげ様で各種の事業や行事が復活し始め、会長としての出席頻度(ひんど)が急に増え、うれしい(?)悲鳴をあげています。

 先日仕事(社協の仕事ではありませんが)で、10月末と11月中頃の二度京都に行ってきました。予想通り新幹線も京都駅も外国人観光客で溢(あふ)れ、身動きできないほどの混雑ぶりでした。どこの国にいるのかと戸惑いながら、京都駅を離れるのに随分時間がかかってしまいました。

 11月16日付の「毎日新聞」にこんな記事が載っていました。
○新型コロナウイルスの感染が落ち着き、インバウンド(訪日外国人客)が急速に増加している。政府観光局が15日に発表した2023年10月の訪日外国人客数は、単月でコロナ禍前(2019年10月)の水準を初めて超えた。

○「ここは道路です。ダメです。」海外でも人気のアニメ「スラムダンク」のモデルになっている江ノ島電鉄の鎌倉高校前駅近くの踏切周辺。警備員が車道にはみ出して写真を撮ろうとしていた観光客に注意した。10月の平日午後だったが、現地では海外からの観光客ら数十人が電車が通るたびに写真を撮影していた。
歩道に観光客があふれていたため、ジョギングをしていた地域住民が車道を通らざるを得なくなる場面があった。周辺にはパトカーが停車し「道路に飛び出たり、立ち止まったりすると危険。ルールを守って、楽しい鎌倉観光を」などと呼びかけていた。
この踏切の周りの住宅では、家の前で観光客が座り込み通りづらくなったり、人が多くて歩道を歩けなくなったり、お気に入りの角度から写真を撮ろうと、住民の自宅敷地内に侵入するケースが発生するなど問題が起きている。

〇北海道美瑛町は、丘陵地帯に広がる壮大な農村風景が写真映えすることで人気の観光スポットだが、観光客が写真を撮るため、私有の農地に立ち入り、生活道路や農道への違法駐車によって住民の交通に支障が出ているという。

○京都市ではバスを増便しているものの、増加する観光客に追いつかず、バスターミナルが混雑。地元住民が必要な時にバスを利用できない事態に追い込まれている。また芸妓(げいこ)・舞妓(まいこ)を無断で写真撮影するケースもあるという。

 観光客が増えることは有り難いことですが、地域住民にとっては、生活に支障をきたすことが多発しており、大変な迷惑をこうむっていることが大きな問題となっているようです。
 何れにしても最低限ルールを守り、そこに暮らす人々の迷惑にならないよう気を配ってほしいものです。

第六十一回

2023-09-28
今年の夏は記録的な暑さが、しかも長期にわたって続きました。9月に入っても暑さが続き、いつになったら収まるのか心配になるほどでした。しかもこの間(かん)雨が全く降らず、田畑の被害が出ている一方では、降り過ぎで甚大(じんだい)な洪水被害をもたらした地域がありました。いつも災害のたびに心を打たれるのですが、多くのボランティアの人たちが駆(か)けつけ、被災家屋の後片付けに汗を流しておられる姿には頭が下がる思いです。被災された方々には、心よりお見舞いを申し上げ一日も早い復興を願ってやみません。
一時収束(しゅうそく)間近にみえたコロナウイルス感染も、深く静かに広がり続けているようです。けっして気を許して予防対策を怠ってはならない状況にあるようです。

先日警察署の方のお話を聞く機会がありました。手を変え品を変えての詐欺事件が後を絶たないようで、その被害額は数十億円にも達しているそうです。これだけ頻繁(ひんぱん)に報道され、注意を呼びかけられているにもかかわらず、騙(だま)される人が増え続けています。どうも「自分は絶対騙されない」と思っている人ほど騙されやすいのだそうです。お互い気をつけましょう。

警察庁は21日、今年2〜6月に殺人や強盗の勧誘(かんゆう)などが疑われたインターネットの投稿148件について、有害情報と判断し、サイト管理者に削除要請(さくじょようせい)したと明らかにした。要請を受け、7月末までに77件が削除された。
昨年の安倍晋三元首相銃撃事件や「闇(やみ)バイト」問題の深刻化を受け、2月から削除要請の対象が拡大されていた。(令和5年9月22日付福島民友新聞記事)

スマホやパソコンなどが非常に便利でなくてはならない生活必需品(ひつじゅひん)となっていますが、その文明の利器ともいえるものが、人間(特に若者)の心を蝕(むしば)み、人生を狂わせるさまざまな事件の元凶(げんきょう)となっていることは、実に由々(ゆゆ)しき問題であろうと思います。社会的にも弱い立場にある高齢者や子供たちが、深刻(しんこく)な被害者となるケースがほとんどで、何ともやりきれない思いにさせられます。

"若い人々のショックな事件が多い。刺激によわいからだ。心を支えるものがないと、人間はそうなりやすい。"
"今日(こんにち)ほど物質に恵まれた時代はないが、今日ほど人々の心の貧(まず)しい時代もない。"
"若い人たちの残酷(ざんこく)な事件が多い。家庭の、社会の、学校の教育が、人間の心を見失ったところに重大な欠陥(けっかん)があるのではないか。"

こんな言葉に出会う機会があったので書いてみました。入間として「生きる方向」をしっかりと見出せる教えに出会いたいものです。

第六十回

2023-07-07
人口の増加が報ぜられる国がある一方で、世界有数の豊かな国である日本では、子供の数が減り続け、人口減少が心配されています。
私たちは、今日まで国を挙(あ)げて豊かさを求め走り続けてきました。そして日本中の都市化を目指し、個々人がそれぞれ自分の都合に合う環境条件を整えることで、そのことを実現させようとしてきました。その結果として「家庭」や「家族」の形態や考え方が大きく変化してきました。

昭和の初め頃はまだ珍しかった、サラリーマンと呼ばれる人が増え続け、男性は外で仕事、女性は専業(家事、育児)主婦ということが社会の「常識」のように考えられ、夫婦中心の核家族が一般的になりました。
それによって経済の成長は遂(と)げてきましたが、「人間の成長」ということに関して言えば、家庭や地域の教育力を低下させてきたように思います。

出産・育児・家庭教育・杜会教育が、極めてプライベートな問題(個人の都合に左右される)になってしまいました。祖父母でさえ関わりが少ない、そういう環境に子供が置かれています。
考えてみれば、女性にとって出産・育児は、生まれて初めての経験ですから不安を抱えるのは当然です。子供を育てるという大事業が、母親一人の手だけでできることではありません。その不安を、与えすぎやワガママ容認(ようにん)や過保護で対応してしまうと、子供の健全な成長は損(そこ)なわれがちになります。

基本的に出産・育児は、本来個人的に密室で行われるようなものではなく、パブリック(公)なことではないかと思います。関係するすべての人々が、その子の安全や成長に関心を払い、できる範囲でお手伝いをするという、かつてはどこにでもあった伝統的風景のように思います。

 生まれた子供が、親の思い通りになるなどあり得ないことです。その不如意(ふにょい)(思い通りにならない)を経験しながら、親も子もともに「人間」になっていくのでしょう。子供が人間であるという事実と真正面からぶつかることが、親に人間であることを迫(せま)る。そうして子供が育つことを通して、家族やその周囲が絆を深め、大切にし合う関係を築きながら、社会が形成され維持(いじ)されていたのでしょう。それが、都市化・個別化の中で崩(くず)れてきたのが、今の社会の状況となっているのではないかと思われます。
 少なくとも、個別に都合が満たされるほど価値があるという見方考え方を方向転換しない限り、少子化に歯止めがかからず、若い人たちの犯罪(罪の意識が希薄(きはく)で、本当に気軽(きがる)に行っているようにしか見えない)も減らないのではないかと思います。

第五十九回

2023-05-25
 先日読んだ本の一節を引用させていただきます。
  「かれは、われを罵(ののし)った、かれは、わたしを害した。かれは、われにうち勝った。(中略)」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。(『法句経(ほっくきょう)』三 中村元訳)
  実にこの世において、怨みに報(むく)いるに怨みを以(もっ)てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(同上)

 2001年9月11日、アメリカ・ニューヨークの「世界貿易センター」に、ハイジャックした旅客機を衝突(しょうとつ)させるという衝撃(しょうげき)的な事件が起こりました。それはちょうど私が私学視察でアメリカに到着した翌朝のことでした。その訪問先であるクロスロード・スクールの理事長ポール・カミンズ先生は、ブッシュ大統領の声明の翌日に、「大統領の声明はWho (犯人)とHow(方法や程度)のみで、もっとも大事なWhy(原因や経緯)への言及がない。また自らを正義・善とし、それを攻撃するものを悪魔だと断定しているがいかがなものか」と、私たちにおっしやいました。テロ直後で、全米が興奮気味に報復(ほうふく)だ、戦争だと声高(こわだか)に叫んでいる時にです。
 その識見(しっけん)と勇気にふれ、いろいろと考えずにはいられませんでした。アメリカを中心とする「世界」と、大地から汗を流して生産するところから一番遠いところで巨額のマネートレードが行われる「貿易」、そして自分たちこそが「センター」であるという、その「世界貿易センター」がテロ攻撃を受けて崩壊しました。テロが卑劣(ひれつ)で一片(いっぺん)の擁護(ようご)の余地(よち)もない行為であることは言うまでもありませんが、そこに何かしら新世紀の私たちの進む方向の大きな欠陥(けっかん)や思い上がりを思い知らされたように感じます。

 仏教では、人間は「三毒(さんどく)の煩悩(ぼんのう)(貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち))」を持つと教えられています。
 貪欲・・・自分中心の果てしのない、満足を知らない欲望充足(じゅうそく)活動
 瞋恚・・・いつも他と比べて勝ちを目指し、負けて怒(いか)り、思い通りにならなくて憎(にく)む
 愚痴・・・そういう自己の事実にまったく目を向けず、自覚することもなく、いつも自分の都合という物差(ものさし)で考え行動する
 私たちの無自覚さの上に成り立っている文明そのものといえるようです。

 そのことと同時に思われることは、先の世界貿易センターに象徴される今の私たちの世界に、「畏敬(いけい)」の心が見失われているということです。
 自然を畏(おそ)れ自然を敬(うやま)う。人間を畏れ人間を敬う。人知(じんち)を超(こ)えたものを、人間を含めたすべての存在を支えている一切のものを畏れ敬う。
 「畏れる」とは、その価値や力、偉大(いだい)なはたらきを認め、謙虚(けんきょ)になるということです。「敬う」も、意味や価値を理解し、尊び、丁寧に心を込めて対処するということです。自らの限界を知り、また自らを支える願いやはたらきの無限性を知ることです。

 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。一このことわりを他の人は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。(『法句経(ほっくきょう)』中村元訳)

 死すべき人間同士が、不可思議(ふかしぎ)の力に生かされて今ともに生きている。その事実からすべてが始まると知らねばならない。

第五十八回

2023-04-21
 最近立て続けに、年齢も近く、懇意にしていた方の葬儀に接する機会があり、「死」というものがより身近に感じられるようになりました。自分の年齢と重ね合わせて、改めて自分の人生や死のことを我が事として考えさせられています。

 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。ーこのことわりを他の人は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。(『法句経』(ほっくきょう)中村元訳)

 私たちは、生きているのが素晴らしいと考えるあまり、死の意味を見逃してしまいがちです。「生きているときが花で、死んだらお終(しま)い」というような言葉も耳にします。現代人の死生観は、生のみの人生観になっているようです。それは、物事を自分にとって都合のいい面だけ見ていこうという姿勢で、いわば紙の表だけを求めようとするようなものです。
 私たちが「人生」と呼んでいるものを仏教では「生死(しょうじ)」と表現します。それは生と死を併存(へいぞん)した人生観です。西洋でも「人間は死に向かって生きているものである」(ハイデッカー・哲学者)と言われるように、死を視野に入れて生を考えるのは当然のことであり、健康な人生観であるといえます。
 言うまでもなく、どの人も皆死ぬ人です。例外はありません。絶対的真実といえるでしょう。人間は逞(たくま)しいものですが、またはかなく脆(もろ)いものです。そして自分自身のいのちがいつまで続くのか、いつどのような形で終わるのか、全く知り得ません。また計画することもできません。死ぬ者同士の私たちであると分かったとき、私たちが為すべきことは、支え合い、生かし合うことことのみでしょう。
 心電図をとった方から聞いたことがあります。一日に10万回余の鼓動が記録されていたそうです。心臓が止まったら死ぬ私のその心臓は、今日までずっと動き続けて、私を生かしてきてくれました。眠っているときも働いているときも、気分のいい時も落ち込んでいるときも……。

 「メメント・モリ」(死を想えと訳されていました)という言葉を聞いたことがあります。仏教的には「念死(ねんし)」(常に死から目を逸(そ)らすな)ということで、そのことがすなわち生を見つめることになるということです。
 死の意味や人生における位置が明らかになると、生きている今の意味や価値も見えてきます。思い通りに生きることにのみ価値を見ようとする私たちには、老・病・死は「苦」ですが、死を見つめることで、私が私という人間として生まれ、亡き人も含め数多くの方々との関係の中で生きてきたことの自覚が生まれ、そこから満足や喜びが見出せるのではないかと思います。目を逸らし、老病死から逃げ回るような人生は、むしろ「生」がはっきりしません。死をごまかすと、生も実感できなくなるのです。

 私たちは、身近な人の死に出会うと辛(つら)く悲しい思いを持ちますが、同時にその死を通してその人の生、つまりその日まで生きておられたここに一つの尊い人生があったということが、くっきりとしてきます。そこから、この私の人生も尊いものであったと、だから大事に丁寧(ていねい)に生きて、決して空(むな)しく過ごすようなことのないよう生きなければならないと知らされ、生きる楽しさや喜びも素直に感じられるのでしよう。
 老病死をはじめ、イヤなことから目を逸(そ)らし避(さ)けようと、逃げ回っているだけが私の人生の姿となっていないか、問うていかねばならないと感じさせられています。

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