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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第五十三回

2022-11-02
  先日、新入職員の歓迎の意味を込めた、昼食会を催(もよお)していただきました。コロナ感染の蔓延(まんえん)以来、全職員での歓送迎会を開げずにいることから、いつも幹事役を担(にな)っていいただいている職員さんの発案で、楽しい昼食の時間を用意していただきました。もちろん大勢参加の会食はできませんので、幹事さんの独断と偏見により厳選された(?)数名の職員での昼食会でした。和気(わき)あいあいとした雰囲気(ふんいき)の中で、おいしい昼食をご馳走(ちそう)になりました。

 「食」とは、私たちのいのちと身心を養い育てて、保ち続けるものです。それぞれの「食」、が咀噌(そしゃく)され消化吸収されて、私の体といのちの一部になります。
 私たちが、人間として育ち成長していくのに何が必要でしょうか。口から入る食物のみではありません。知識・知恵・経験・情報、さまざまなモノ、また親や友人をはじめとする種々の人間関係(ふれあい)や思い出も大切です。そして、願われてある存在(いのち)であることに気づくことが、安心や元気につながります。

 仏教では、私たちの生命維持(いじ)と成長に必要な、四つの「食」を教えています。これを「四食(しじき)」といいます。
1、段食(だんじき) 一 一口一口の日々の飲食物のこと。肉や野菜などの実際の食物をいう。
2、触食(そくじき) 一 外界(げかい) とのとの接触(せっしょく)のこと。親鳥が卵を温かく抱くことで
              雛(ひな)が孵化(ふか)し育つように、いのちあるものは温かい触れ合いによっ
              て育ちます。
              私たちは、よき人と、自然と、動植物などとの触れ合いに育てられています。
3、思食(しじき)  一 自分の意志や思考が身体や生命を養うということ。自分の成りたい状態を願い求
              め、その意欲をもって自分を育てよう高めようという意思が、その人を育てると
              いうこと。
4、識食(しきじき) 一 精神の主体(心)をいう。見たもの、聞いたこと、香り、味、感触とその内容を認識
              し、満足や喜びや感動や感謝の心がはたらいて、私たちの「生きる」ことが成り立
                                     ちます。

 世界中に食事とその作法の文化があります。私たちのいのちを支え育てる、家庭や社会のなかでの大事な教育です。「不殺生(ふせっしょう)」が仏教徒の生活規範(きはん)の第一ではありますが、私たちは生きるために命あるものを食べなければなりません。野菜や果物は枯(か)れてしまってからでは食べられないし、肉や魚介(ぎょかい)も新鮮なものを求めますが、むやみに殺してはなりません。
 食事の前に、眼前の食物や生物(いのち)に向って両の手を合わせ(合掌(がっしょう)一いのちに対する敬意(けいい))、申し訳ありませんが、私の生存のためにあなたのいのちを『いただきます!』と、言わずにおれない伝統のマナーを大事にしなげればならないと思います。
 また、この食事が私の前に整うまでの過程と準備への感謝を込めて、手を合わせ『ごちそうさま!』も忘れてはなりません。

 世界の国の中で下から14番目の食料自給率(42%)の日本で、食べ物の3割が捨てられているといわれています。
 この現実もふまえながら、忘れかけていた豊かな食文化を思わずにはおれません。

第五十二回

2022-10-03
 高齢化社会の一端(いったん)を担(にな)っている私も、歳を重ねるに従い、友人・知人の訃報(ふほう)に接することが多くなりましたが、結婚式などの慶事に招かれることはなくなってしまいました。後は孫の結婚を待つのみです。(間に合うといいのですが。周りからは無理でしょうという声が・・・)
 「80年かかってやっと手に入った80歳なのだから、大事に生きなければ」と思う半面、高齢者の多くは「つまらんようになった」と自嘲気味(じちょうぎみ)に本音をもらします。何故そう思わずにはいられないようになっているのか考えてみました。

 戦後77年、わが国は世界有数の高品質製品生産国になり、そのために、木材・石材・鋼材・集成材などあらゆる素材や用材が必要となりました。さらに、知恵も技術も労働も情報も資金もそのための「材」となり、そういうことから「逸材(いつざい)」「適材(てきざい)」「人材」などと、人間が「材」としての価値でみられるようになったのです。
 確かに人生の中で、人材と呼ばれるにふさわしい働きをする時期はありますが、私たちは「人材」である前に、「人間」であることを明確にしておかなければなりません。
 「人材」とは、何か(誰か)にとって役に立つ、あるいは都合の良い材料としての人間のことですから、いい人材からそうでもないものまで、はっきりと序列・順位が付きます。そして、その役や仕事のための人材として相応(ふさわ)しくなくなると、同じような働きをする他の人が人材として代わるわけです。つまり、人材は代行可能であり、見る人による価値の序列があるものです。

 私たちは、生きていれば必ず老い、傷病(しょうびょう)を得、死を迎えます。それに従って、世間的には人材としての価値が下がっていくとみられるので、「つまらん者になった」と嘆くことになります。若い元気な時に、老人や障がいのある人などを価値が低いと蔑視(べっし)していた人ほど、自分がそうなったときに、事実をまっすぐに受け容れにくいようです。

 大事なことは、私たちは「人間」であるということです。人間である限り、いのちあるものである限り、無条件に尊いのです。その尊さは、老いや心身の傷病や肉体の不自由などでいささかも減ずるものではありません。全く平等の世界です。
 完璧(かんぺき)な人も完成された人も一人もいない、みんな長短を併(あわ)せ持った者同士です。その表れ方はそれぞれで、それが個性となる。だからこそ誰も代わることはできません。不完全なそれぞれが、それぞれに尊く平等なのです。そして不完全であるからこそ、願われているのであり勉強する余地があるのです。成長し続けるのです。また、支え合い、助け合わなければ生きていけないのです。

 宗教とか教育というものは、「人間」を育てるものであって、「人材」をつくるものではないのです。もちろん結果として、優れた人材として活躍する人と成ることは素晴らしいことですが、まず人間としてどう成長したかということが大事なことでしょう。
 「ヒト」として生まれた私たちが、さまざまな学びと経験を通して、私に安心できる人間性豊かな、自覚的人間に成っていく。そういう必要性を背負って生きていると感じさせられています。

第五十一回

2022-08-31
 現代社会の一つの特徴として、「個」の尊重ということがあります。個性や人権を大事にすることはとても大切なことですが、「人それぞれ」をあまり強調し過ぎると、人間として本当に大切なことを見失う方向に進んでしまうということがあるようです。
 あらゆることが個別化また個人の利益追求の方向に傾き、便利で快適な個室に居て、知らず知らずのうちに人間として社会と関わることが少なくなってしまう。その姿を「コクピット的全能感(ぜんのうかん)(何でもできる)」を持っていると表現した人がいます。
 例えば、戦闘機の操縦席のように、周りの機器やリモコンで座ったまま情報をキャッチ(テレビ、スマホ)し、あらゆるところにアクセス(インターネット)し、まったく痛みや苦痛を感じることなく相手を攻撃(ゲーム)できる。これが私たちの現代文明が日指した姿なのでしょうか。そしてそれは幸せなのでしょうか。
 世界には、日本の子どものお年玉以下のお金で、家族全員が1年間生活している人が10億人もいるそうです。その人たちが不幸で、私たちがはるかに幸せとはとても思えないのですが・・・。
 今の私たちは、ワガママが通れば通るほど、自分の都合がうまくいって自分の思い通りになればなるほど暗くなっていくようです。満たされたはずなのに何か明るくならない、元気が出ない、そんなふうになっていくようです。

 辛(つら)く苦しい状態のことを「地獄」といいますが、その「獄」の字は「ケモノヘン」と「犬」の間に「言」という形です。つまり、ケモノと犬がコミュニケーションしようとするが出来ない姿です。つながりや関係性が切られ孤立させられていくということが、人間にとって一番辛く苦しいことです。
 平安時代の僧・源信僧都(げんしんそうず)の著書『往生要集(おうじょうようしゅう)』には「我今帰(き)する所なく、孤独にして同伴(どうはん)なし」と説明されています。安心できる帰る場所がないのが地獄であり、関係性を絶たれて排除(はいじょ)され差別され無視されて、ともに生きたいと体中が願っているのにともに生きともに喜び悲しむ人がいない、それが地獄なのだと。

 自分の中に生きる喜びや楽しみや満足感のない人ほど、下方比較(かほうひかく)(自分より下のものを探しそれと比べて満足しようとする)をしたがる。それが差別やいじめやハラスメントなどになっていきます。他の人の人間性を奪うことが、実はその人自身が人間性を失うことになるのです。そんな方向に本当の幸せがあるはずがありません。下方比較によって一層非人間化が進み、なお内からの満足はなくなるという悪循環(あくじゅんかん)に陥(おちい)ってしまいます。

 私たちは、自分に利益があることだけが幸せで、他人に物をあげたり分けたりするのは損だという考え方があります。しかしそれは逆なのです。おすそ分けすることができるという幸せ、困っている人に自分のできる限りのことをすることができる幸せというものもあるのでしよう。

 犬や猫など動物を表す言葉と異なり、私たちは「間」の上に「人」という字をおいて「人間(じんかん)」といいます。つまり「間柄(あいだがら)」という関係性の上に私たちの一人ひとりの「人」というものが成り立っているということです。
 私という「人」の幸せや存在満足は、「間柄」(関係性、共感、挨拶、会話、気遣い、思いやり、親身のふれあい、コミュニケーションなど)があってはじめて成り立つのです。
 コクピットから出て、人間の温かさ爽(さわ)やかさを感じてほしいと思います。

第五十回

2022-07-29
 ある高等学校の校長先生が書かれた本を読み、考えさせられたことがありました。この学校では、イギリスのケンブリッジでのホームステイ、英語学校での学び、校外研修という内容で、三週間の夏の海外研修を実施しています。校長先生も、ホストファミリーを労(ねぎら)うお別れパーティーのため、初めてイギリスを訪ねられた時の体験談を綴(つづ)っておられました。

 ある時バスの中で、スキンヘッド、ピアス、刺青(いれずみ)、黒革ズボン、黒ランニングシャツの若い男性と派手な格好の女性が、二人だけの世界に没入(ぼつにゅう)しているように見えました。ところが、その二人のそばを他人が通り、少し接触した時、彼らはさりげなく「Sorry」と言うのです。そして、降車の際は運転手に微笑(ほほえ)み「Thank you,good-bye」と言ってバスを降りていきました。外面から偏見(へんけん)や先入観(せんにゅうかん)を持っていた私自身を知らされました。二人だけで居たくても、そこに他人や社会が関わると、さっとマナーや必要な言葉・コミュニケーションが表に出てくる。プライベートとパブリックが明確なのだという印象を受けました。他でも様々な場所で「Sorry」に出会いました。まるで呼吸の一部のように、自然に「Sorry」なのです。老齢の紳士も若者も、男性も女性もです。大人の社会を感じました。同時に、観光地や空港の床に座り込んで、通行する人に叱(しか)られ憔然(ぶぜん)とする日本の学生の未成熟が見えてきます。

 周りを気にせず自分だけの世界に入り込んでしまい、携帯電話をかけたり化粧をしたりするのは、周りを気にしないのではなく、周りを気にする脳のはたらきが機能していない、つまり一種の脳機能障害の可能性が高いそうです。具体的には、前頭連合野(ぜんとうれんごうや)という自我や社会的知性などを司(つかさど)る、脳部位の発達障害ということになるようです。

 どういうことでそうなるかと言えば、成長途中に相応(そうおう)の教育やしつけがないと脳は十分に発達せず、ダメージを受けたのと同じ状態になってしまうのだそうです。現代の西欧化した食生活や住環境(思春期以前に与えられる個室が最悪)も脳にダメージを与えているようです。

 ワガママな自分の都合(つごう)が通ることで一見幸せになったような気がするかもしれませんが、私の願いが叶(かな)えば叶うほど、私を含んだ全体が崩壊(ほうかい)していくということを知らなければなりません。それは「共に生きたい」と言ういのちの根源的な願いに背(そむ)くことですから、結果、常に不満不安で暗く落ち着かない自己に苦しむことになります。

 先程の学校での取り組みは、生徒にとってイギリスの家庭でワガママも通じない、ことばも不自由な中での苦労と我慢が、自身の成長にとってどれだけ得難(えがた)い貴重な体験であったかということに気づく日が必ず来ると思います。

第四十九回

2022-06-28
 私の机の上に電気スタンドが置いてあります。しかし光は放(はな)っていません。スイッチが入っていないからです。光を放つ仕組みに問題はなくとも、スイッチを入れなければ光は放ちません。
 人間もこれと同じようなもので、何一つ欠陥(けっかん)のない体に生まれついているのに(敢(あ)えてこのような表現にさせていただきます)、少しも光を放たない人間があるものです。どうも、スイッチの問題ではないかと思います。

 ある先生の言葉を引用させていただきます。
  誰だい?
  ぼくは頭は悪いし、
  ダメな人間かもしれないなんて心配しているのは?
  ダメな人間なんてあるものか。
  人間はみんなすばらしいんだ。
  何でも見えるすばらしい目を、君はもっているじゃないか。
  何でも聞けるふしぎな耳を、君はもっているじゃないか。
  覚えることだって考えることだってできる
  ふしぎなはたらきをやってのけることのできる頭が、君のためにちゃんとあるじゃないか。
   (中略)
  食べたものを血にし、肉にし、骨にし、
  はたらきのエネルギーにかえていく、
  魔法のようなはたらきをやってのける胃や腸が、
  今も君の腹の中ではたらいているんだよ。
   (中略)
  どこがダメだというんだ、どこがっまらないというのか。
  つまらないのは
  このすばらしい君のすばらしさに気付かず自分はっまらないなどと考えている、
  君のその心だとは思わないか。
  しくみのりっぱな電球でも、
  スイッチを入れなければ光は放たない。
  人間のすばらしい目も
  見ようという心のスイッチが入らないと見ていても見えない。
  聞こうという心のスイッチが入らないと耳も耳のはたらきをしてくれない。
  頭もそうだ。
  しくみのせいじゃないんだ、スイッチのせいなんだ。
  スイッチを入れて鍛(きた)えてさえいけば、
  どんなむずかしいことだって覚えられるようになるし、
  どんなむずかしいことだって、
  考えられるようにだってなるんだ。
  月の世界へ飛ぶ知恵だって、人間の頭が生み出したじゃないか。
  心のスイッチが、
  人間をダメにもし、すばらしくもしていくんだ。

 それでは、心のスイッチは、どうすれば入るのでしようか。
 脳の解剖学の権威(けんい)が「のら猫の脳と飼い猫の脳を解剖して比べてみると、のら猫の脳はよく発達しているが、それに比べて飼い猫は、発達が遅れている」とおっしやっています。
 このことから考えられることは、あまり恵まれ過ぎた条件の中では心のスイッチが入りにくいということのようです。
 今日の物質的豊かさがかえって人間の心の豊かさを損なっているようです。
 不遇(ふぐう)な状況に追い込まれた時、これこそ自分を鍛(きた)える機会だと、それを両手で受けて立つ心構えを持つ。恵まれた状況の中にいるときもいい気になってしまわずに、自分をさらに高次(こうじ)の自分に高めろために、自分をつくっていく努力を持てるような目覚めを促す出会い一指導者、教え、ことばなど一が大事なことだと思います。

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