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会長のつぶやき

会長就任

令和7年6月27日、当会で役員改選が行われ、五十嵐 司也が会長に就任しました。
よろしくお願いします。

※旧会長の「つぶやき」につきましては、当分の間掲載しておりますので、ご覧ください。

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会長 五十嵐 司也(いがらし もりや)

【生年月日】1949年(昭和24年)9月7日

【住まい】福島県会津若松市

【家族構成】3人家族

【経歴】大学卒業後、会津若松市役所に38年勤務。その後、会津鉄道株式会社で役員を11年、当会の監事として2年間務めて、会長へ就任。

【趣味】マラソン大会への参加
 ガンを患い、健康管理の一環として、ジョギングを始め、2008年に鶴ヶ城マラソンに参加。
 その後数々の大会に参加し、今年10月の水戸マラソンで95回目。早い機会に100回目の大会出場を目指します!!
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第三十ニ回

2021-02-03
 昨年秋から増え始めた新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。そのような中、11都道府県を対象にした二度目の緊急事態宣言が発令されました。
 私たちの身の回りでも、いつの間にか感染者が増加し、それこそ"人ごとではない"状況になってしまいました。

 新しい生活様式ということでさまざまな方法がとられ、何とかこの状況を乗り切ろうと懸命の努力が続けられていますが、私たちの生活に及ぼす影響は計り知れないものがあります。

 先日気になる新聞記事が目に留まりました。このコロナ下の暮らしの変化の一つとして、自殺者の増加ということが報じられていたことです。
 中でも、女性の自殺者が二年ぶりに増加したことが挙げられ、その原因がコロナの流行に伴う経済情勢の悪化や、外出自粛などで外出の機会が減り、子育てや介護、家庭内暴力などに関わる問題が深刻化したことにあると分析していました。

 もう一つは、ジャーナリストの池上 彰さんの文章です。
 ー感染を防ぐには、「ソーシャルディスタンスをとることが必要だ」と言われるようになりました。でも
  ソーシャルディスタンスは「社会的距離」という意味です。私たち人間は、社会の中でこそ生きていけ
  るもの。他人との間に「社会的距離」を取っていては、寂(さび)しくて辛(つら)いのです。ここは
  「フィジカルディスタンス(物理的距離)」という言葉を使うようにしましょう。物理的距離は離れて
  いても、社会的距離つまり「心の距離」は離れない。そんな生き方を心がけようではありませんか 一
 誠にその通りだなと感心させられました。意味もわからず「ソーシャルディスタンス」などと言っていたことが恥ずかしくなりました。

 人間は近年ことに個人主義的傾向が強くなったように感じられます。自分さえよければ、自分に害がおよばなければ何をしても、何を言ってもかまわない。それによって他人がどうなろうと意に介さない。そんな気分が広がっているような気がしてなりません。
 この不自由な生活の中でも、私たちは「人間(じんかん)」一間柄を生きる存在、人と人、ものと人との関わり合いを生きる関係的存在一であることを肝に銘じて、「心の距離」を離れずに生きて往(ゆ)きたいものです。

第三十一回 新年ご挨拶

2021-01-08
新年明けましておめでとうございます。
 皆様方には、令和三年の新春をどのように迎えられたでしょうか。
 昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年間でしたが、厳しく辛い日々を過ごされた方も多かったのではないかと存じます。影響を受けられた方々には心よりお見舞いを申し上げます。
 会津地方は、当初少ない感染者数を維持(いじ)してきましたが、いつの間にか数が増え、いよいよ身近に迫ってきたことをひしひしと感じさせられています。
 幸いにも当社協におきましては、変わらぬ市民の皆様の温かいご支援に支えられ、ここまで自粛(じしゅく)を余儀(よぎ)なくされつつも、できる限りの事業に取り組んでまいりました。おかげ様で職員一丸となっての感染予防対策のもと、ご利用いただいている方々、職員一同感染者を出すことなく過ごせましたこと、改めて感謝申し上げる次第でございます。
 今年もまた、感染予防対策怠りなく、可能な限り事業を実施して参りますので、皆様方の一層のご理解とご支援を賜わりますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

 「新しい生活様式」といわれるように、私たちの生活は今までとは大きく変わりました。
 マスクをつけ、密(みつ)を避けての生活は、本来の人と人との触れ合いの場を奪ってしまいました。マスク越しの応対(おうたい)は、表情を通しての互いの感情の確かめ合いが不十分となり、特に子供と母親や保育園・幼稚園・学校の先生との間で、大事な「笑顔」が伝わりにくくなったことが心配されているようです。
 不自由な生活の中で、不安と閉塞感(へいそくかん)とやり場のないイライラに覆(おお)われて、他人に不必要に当たり散らすという行為が増えてきました。
 私たちが、このコロナ禍の中で経済的に失うものが多いこともありますが、人間性を見失っていくことの恐ろしさも実感させられています。
 今や全人類が未曾有(みぞう)の出来事に直面し、私たち一人一人の上にその対応(たいおう)が求められている、「時」を生きなければならないのだと感じさせられています。
 今年一年を通してこの難しい課題をしっかり受け止め、克服していくために力を合わせ、平穏な生活に戻れるよう収束に向けて歩んでまいりたいと思います。

第三十回

2020-12-01
私たちは、近年数多くの自然災害や事故、遡(さかのぼ)ると戦禍(せんか)にも見舞われてきました。そして今、新型コロナウイルスの感染という稀(まれ)に見る脅威にさらされています。その度に多くの人命が失われ、大切なものが奪われるという被害を被(こうむ)ってきました。
 
そして各地では、その犠牲者を悼(いた)み追弔法会(ついちょうほうかい)が執り行われていますが、実はこの追弔会法要(ついちょうかいほうよう)ということは、ただ単に亡くなられた方々を偲(しの)んだり、供養したりすることだけではないのです。
 
普通私たちは、「時」ということを考えるとき、「過去・現在・未来」という流れで受けとめていますが、仏教では「過去・未来・現在」というとらえ方をします。
 
今日(こんにち)の私たちは、過去に起きた災害や事故や戦争という出来事から、「私たちの犠牲を無駄にしてくれるな」と過去から深く願われている、そういう責任を担(にな)って生きているのでしょう。
 
同時に、私たちの今さえよければということで、何もかも使い尽くし利用し尽くしている現在の生活が、未来からおそらくは「あなたたちは未来のことをどう考えてきた」のか、「子や孫にどんな未来を残そうとしてきた」のか、と問われている、そういう過去と未来に問われている”現在(いま)“を生きているのでしょう。
 
亡き人を偲び法要を営むということは、過去と未来からの問いかけに気付かされる「学びの場」をいただくという大切な意味も持っているのです。
 
人間というものは、他の生き物とは違います。いろいろな違いがありますが、人間は人間に育てられないと人間になれないのです。
人間は未完成で、未熟なままで生まれてきます。ですから、何に出会い何を学ぶかによって大きく変わります。
 
犬や猫は完成されて生まれてきます。家で人間に飼われたり、動物園で飼育係に育てられたので、気がついたら人間になっていたということはありません。変わらないのです。
 
人間は、出会ったこと(もの)学んだこと(もの)によって、すなわち出会った縁(環境)によって変わるのです。環境次第でどうにでも変わってしまうのが人間なのです。
そういう意味では、人間は課題的存在といえます。まさに過去と未来から問われて、課題を生きていくものなのです。
 
ところが、私たちはその課題を忘れて、日常の目の前のことにとらわれそれに振り回されていくので、なかなかそういうことに気づきません。だからこそ、常に本来の在り方に引き戻してくれる”はたらき”に出会うことが、何よりも大切なことなのです。
 
今起こっている様々な出来事を通して、改めてそういうことを学び直し考えさせていただいて、本当の意味で”人間”を生きて往きたいと思います。

第二十九回

2020-09-01
ついに恐れていた新型コロナウイルス感染が、会津若松市でも現実のこととなってしまいました。「会津での第1号感染者にはなりたくない」と、注意しながらの生活でしたが、残念ながら当市も例外を通すことはできませんでした。
 
誠に辛いことですが、これからもさらに気を引き締めて、蔓延まんえんを防ぐ手立てを講じていかなければならなくなりました。
このところ私たちの身の周りでは、地球規模で様々な災害や病気など異常事態が頻繁ひんぱんに起こっています。多くの研究者が指摘し続けている、地球を取り巻く環境の悪化が、目に見える形で現れているようです。
 
人類が長年に亘って追求してきた、豊かさ、便利で快適な暮らしの享受きょうじゅが、気づかないうちに地球全体の環境を汚染し、大気を汚し、宇宙空間までゴミでいっぱいに満たしてしまいました。そして人間はもとより、すべての命の存続さえ危うい状態にしてしまったのです。
 
私たちの身の周りに起こるすべてのことには原因があり、そのことが結果としてあらわれてくる、これは誰にも変えることも、動かすこともできない絶対の真理、真実です。
 
人類がこの地球上に誕生して以来、願い続け、行動し続けてきた事実の積み重ねが、今結果として私たちの身の周りに現われてきているということでしょう。
 
何時の日か、すべての人類がこの現実に目覚め、どうすればより良い”原因”をつくっていくことができるのか真剣に考え、取り組んでいかなければならない「時代とき」を生きているのだと改めて思い知らされています。

第二十八回

2020-06-04
新型コロナウイルスの蔓延まんえんにより、私たちの生活は一変しました。
その恐怖と不自由さの中でも懸命に闘い、生きるための努力を尽くしている人々の姿が、連日報ぜられています。その尊い姿に励まされながら、日々を過ごさせていただいています。
 
私の家にどういう経緯けいいで伝わったのかわかりませんが、石の小さなお地蔵様がおられます。庭石の上に安置しておいたのですが、気づいた方がお賽銭をあげてお参りをしていかれるのです。
 
ある時ふと気づかされたのですが、よく見るとお地蔵さまは合掌しておられるのです。普段は、恥ずかしながらお賽銭の方ばかりに気をとられ、お地蔵様にはあまり関心を示さず、その存在すら忘れているこの私に向かって、両の手を合わせ静かに微笑ほほえみをたたえながら拝んでおられるのです。拝む人も、気づかずに通り過ぎていく人も、いつも拝んでくださっているのです。
 
でも、拝まれているのは”私”ではありません。私が内包ないほうする”尊さ”に礼拝して下さっているのでしょう。私の自覚を超えた、私の尊さが拝まれていたのでしょう。拝まれて知らされる私の尊さがあったということです。拝み拝まれるということによって、尊い者同士であったと知らされるのです。
 
「覚さとり」とは、自分を含めた一切の尊さに目覚めることかもしれません。全ての存在には意味があり、価値があり、そしてつながり関係している故に、あらゆる存在や現象が私を支え成り立たせ、同時に私も何かを支え成り立たせている大事な存在なのだ、と気づいていくということなのでしょう。
 
その尊い私は、私を尊く生きているでしょうか?
他の命の尊さが見えず、私の都合のために他を利用し貶おとしめていく。そのことによって、さらに私自身の尊さが見えなくなっているのではないか。それを感じる力を「宗教心」というのでしょう。宗教(真実の教え)によってそういう私に気づき、その恥ずかしい私が、尊い存在として願われ支えられていると知らされるのです。そこに感謝と喜びと痛みが生まれます。その上で、たとえそれがささやかであっても、自らに与えられた環境条件の中で、できることを尽くしていく生活が始まるのでしょう。
 
尊さを見失ったとき、いじめ、差別、虐待、排除のような、他者の人間性を見失う姿になります。その他者を非人間化した時、自分自身が人間性を失い、非人間化してしまうのです。戦も争も殺も傷もそこから始まります。

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