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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第四十一回

2021-11-15
 近年とみに命が軽く扱われる事件が多発しているように感じられます。皆、口では命の大切さを唱えていますが、現実には「いのち」の意味を問うことも学ぶこともなく、非常に粗末(そまつ)にされていると思われてなりません。
 自分の思い通りにならない不満や不安を不特定多数の人にぶつけ、意味のない迷惑を振りまいて何の痛痒(つうよう)も感じない、そういう感覚が増えていくのではないかと空恐ろしい思いを強くしています。
 執拗(しつよう)に繰り返されるいじめを受け、地獄の苦しみに耐えきれず必死にSOSを発信しているにもかかわらず、そのことを受けとめることもせず自殺に追い込んでしまうケースや、事件に遭(あ)っていのちを失った人の家族に対する、SNS等での誹誇中傷(ひぼうちゅうしょう)の中身や数の多さにはただただ驚きあきれるばかりです。
 また、歩きスマホによる事故の多さと、その後遺症に苦しむ人たちの様子や後悔する姿とメッセージが報じられるなど、インターネット、パソコン、スマホ等の過剰(かじょう)なまでの普及発展が、人間の心や身体を蝕(むしば)み、社会生活に及ぼしている悪影響ははかり知れないものがあるようです。私たちは、手軽に手にした便利さに振り回され、逆に不幸を招くという皮肉な現実に曝(さら)されているようです。

 「いのち」は、生まれたくて生まれ、生きたい、成長したい、わかり合いたい、つながりたいと生きているに違いないのです。しかし、そのいのちの管理人ともいうべき「私」は、生まれて生きる意義や方向を見失ってしまっているようです。
 命がその人の母胎(ぼたい)に宿り、そして人間として誕生した。つまりこの私は、いのちに選ばれて生まれ、今、いのちをお預(あず)かりして生きているのです。そして、同じ生きるのなら人格ある人間として「私」として生きたい。「私」としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいということを、心の底で願っているのでしよう。生きたいのです。殺したくも殺されたくもないのです。

 「いのち」とは、生きようとする願いや働きや力のことだと思います。
 そしてあらゆる「いのち」は、つながりながらいきいきと響(ひび)き合い、生かしあう世界(これを「極楽」、「浄土」という言葉で表現したのです)へと向かっている。そういう点で「いのち」は「仏性(ぶっしょう)(真実の在り方を求める潜在力(せんざいりょく))」であり、私たちはそういうものを備(そな)えて今を生きているということです。
 ですから、私が私として生きるとは、「私 事(わたくしごと)」ではありません。いのちを含めた私を私有化(しゆうか)することは許されません。いわば「公共的(こうきょうてき)な私」を生きているのですから、人間として生きる責任があるのです。そのいのちは、私の人生を通してどうなりたいと、どうありたいと願っているのでしょう。

 日常の生活の中で、時に感動を共有し深く共感する経験をします。そんな時、今日(こんにち)まで生きていればこそ出会えたと思います。生きることは出会いです。それは、自分の外にあるものとの出会いもありますが、自分自身に感動をもって出会うこともあるのです。
 星野富弘さんの有名な詩があります。
  いのちが 一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが 苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった
(『《花の詩画集》鈴の鳴る道』偕成社)

 様々な環境条件の中で、この私が現に生きていると「今」を自覚した時、自(みずか)らの内から、私としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいという、いのちから私への呼びかけが聞こえてくるでしょう。

第四十回

2021-09-29
 何年前になるでしょうか、「世界に一つだけの花」という歌が、多くの人の共感を呼び流行しました。
 他人と比べてナンバーワンにならなくてもいい。あなたはもともと世界に一つだけのオンリーワンなのだから、勝ち負けに縛(しば)られず、オンリーワンとしての自分を大切にすればいいということで、多くの人の気持ちが楽になったようです。
 しかし、そのオンリーワンの花は、どこに咲くのでしょう。また何の力で咲くのでしょう。私が私の花を咲かせたいと思えば思い通りに実現するのでしょうか。

 加賀千代女(かがのちよじょ)という俳人が詠んだ「うつむいた処(とこ)が臺(うてな)や菫草(すみれぐさ)」という句があります。
スミレの花をよく観ようとうつむいたのでしょうか。そこで見つけたのは、スミレの花(私たち)を黙って支えている台(うてな-大地)であったということです。

 私たちの生活のすべては、どのようにして成り立っているのでしょう。私たちは何の上に生活しているのか。つまり私の足の下はどうなっているのか。そのように見つめ直してみろと、私の生活、人生のすべてが、現に支えられていたと気づかされます。そういう大地(うてな)がこれまでもこれからもあるのだと。快不快、損得、勝ち負けの一切は、その上の出来事なのでしょう。

 仏陀釈尊(ぶっだしゃくそん)(おしゃか様)は「人生は苦(く)なり」と説かれました。その苦とは、人間として生まれ生きることは、思い通りにならない(不如意(ふにょい)-意(い)の如(ごと)くならず)ということを表しています。その思い通りにならない人生に耐え、受けとめていく場を「娑婆(しゃば)(堪忍土)(かんにんど)-今現に生きている世」といいます。そしてその娑婆の不如意が、実は人間が人間に成り、人間が人間であるために大切な意味をもっているのです。
 しかし、何の支えもなく孤立無援の者にとっては、娑婆の不如意を生き抜くことは困難で、ひたすら娑婆の都市化(如意-意のごとくなる)を目指すことになってしまいます。

 自分の思い通りには進まない人生だけれど、安心できる大地(うてな)は、すでに私の足下で支え続けていると知るとき、不如意の娑婆が学びの場となります。
 その学びの場を通じて人生が深まり(価値観の変化)、人間に生まれた私が、あらゆる生命(いのち)とのつながりの中で、生かされて生きていることの意味や喜びが実感(生き方の確立)できるのでしょう。
 代行不能、比較無用の尊い人生を、本当に尊いものとして生きてゆきたいものです。

第三十九回

2021-09-01
 最近、社会での様々な事件、犯罪、災害などを目(ま)の当たりにして、何かしら「私が生きる」ということへの信頼感というか、安心感というものが、崩(くず)れてきていると感じさせられます。
 世界中に広がる人種、ジェンダー(性)、障がい者に対する差別、弱い立場の人に向けられるハラスメント(セクシャル、パワー、カスタマーなど)、児童、高齢者、障がい者への虐待やいじめ、力による少数民族への人権侵害など、コロナ禍、地球規模の気象変動と相まって生きづらさを加速させています。
 現代の人々の行動から垣間(かいま)見られる状況は、何か衝動(しょうどう)的、刹那(せつな)的で、「"自尊(じそん)感情の喪失"━自分の意志や考えなく多数派に所属、疲労感の外見と幼い内面、自分の本当の欲求が不明、総じて自己肯定なく他とのつながりも弱く、結果不平、不安、不満、不足が内外へ向かってしまう━」(ある方の文引用)ということがよく表れていると思います。

 「私は生まれたくて生まれてきたのではない」という人がいますが、確かに頭で考えた「私」はそうかもしれません。しかし「いのち」は生まれたくて、生まれる目的や意義があって生まれてきたに違いありません。それを私は、外の空気を吸ったとたんに忘れてしまったのでしようか。ならばそれを思い出すのが、私たちの学びなのかもしれません。

 私がこの私に生まれたということに、意味や価値がないはずがないと思います。どの人のどの人生もです。
 今のこの私は、地球上に生命(いのち)が誕生して以来、三十数億年ともいわれるなが~い生命(いのち)の営みの結果です。つまり私が誕生するのに三十数億年かかったのです。さらに未来を考えても、今後永久にこの私は出現しません。そういう奇跡のような一瞬が私の人生です。そしてその一瞬は無限の内容を含んでいます。私に先立つ無数の生涯が、遺伝子(いでんし)として私に届いているのですから。

 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉があります。これは「ただ我独(ひと)りにして尊し」ということで、私が私として生まれたそのこと自体が、他と比べる必要なく尊いということです。かけがえのない人生が私に与えられている。それはどんな場合も代行不能である。であるなら、私の人生は、たとえそれが自分にとって不満の多いものであっても、私が受けていくしかありません。私に必要な人生が私に与えられているのです。

 あるポジションにいる人は、そのポジションのことだけ見れば代行可能でしょう。しかし私が務めるそのポジションは唯一のものなのです。
他の誰かが務めれば、それは私が務めるのと全く同じにはなりません。
 私に与えられ、私が生きるべき人生を私が生きなければ、自分で自分の人生を粗末(そまつ)に無価値(むかち)にしてしまうことになります。
言い換えれば、私には私を生きる責任があるのです。
 また、私には同時に、私に関わる一切が付与(ふよ)されています。家族や友人、環境や出会う一切が、それらを含めたすべてが、大きな願いとはたらきに支えられているのです。

 人間として本当に大事な真実真理、このことに出会えない人間ほど恐ろしいものはありません。出会いの縁を願ってやみません。

第三十八回

2021-07-28
  新型コロナウイルス感染が収まらない中、オリンピック競技が本格化しました。開催の是非に揺れた国際的祭典の舞台も、いざ選手たちの躍動する姿を目(ま)の当りにすると輝きを増し、応援にもつい力が入ってしまいます。
 一方で、一般の人たちには緊急事態宣言発令中で、外出自粛が求められていますが、街には若者を中心に人があふれています。

〔7月26日付毎日新聞記事〕
 この日都内の感染者数(1,763人)は、5日連続で1,000人を超えたが、夕方になっても人出は減らない。センター街のビルを警備する男性(62)は、「居酒屋もやっているし、マスクをしない人もいる。危機意識が全くない」と眉をひそめる。
 午後6時前、駅では「緊急事態宣言を解除せよ」などと書かれた手旗を持った人たちが、太鼓をたたきながら主張を呼びかけている。
 夕闇が深まると、カラオケ店には順番を待つ若者があふれた。店から出て来たさいたま市の男性会社員(27)は、大学時代の友人と2年ぶりに会ったという。3回目の緊急事態宣言までは外出を控えたが、「我慢をしたところで変わらない気がした。我慢の限界」と話した。
 人の流れに反して道玄坂を上ると、未明まで営業する居酒屋があった。満席で入店まで20分ほど待つ。
 午後10時過ぎセンター街に戻ると、バーからあふれた外国人が路上で缶ビールを飲んでいる。店をのぞくと、マスクを外した外国人らでごった返していた。

 それぞれの人にそれぞれの言い分があるのでしようが、政府や都庁が宣言を出そうが出すまいが、今は緊急かつ危険な状況にあることは誰も疑う余地のないことでしょう。そのような重大事が、都民に十分に伝わっていない(伝えられていない)ことに、改めて驚きと恐怖を感ぜずにはいられません。
 ひとたび感染してしまうと、本人はもとより周りの人たちにも大変な迷惑をかけることになりますし、重症化しやすいことも、後遺症に悩まされることも繰り返し報じられています。

 今となっては一日も早いワクチン接種が、全ての人にゆきわたることと、改めて多くの人たちに理解を促(うなが)し、何とか感染を止める手立てを講じてほしいと願うばかりです。

第三十七回

2021-06-28
コロナ感染拡大がなかなか収まりません。収まりかけてはまた広がるの繰り返しで疲れ果て、もうどうでもいいというような雰囲気になり始めたのではないかと気にかかります。人と人との距離が離れたままでは暮らしが成り立たないのは当たり前なのですが、困った状況が続いています。
ここが踏(ふ)ん張りどころと分かっていても、長引けばどうしても気持ちが折れてしまいがちになります。しかし、最低限、密を避けマスクを着用して感染を防ぐしかないのも事実です。

経済産業省のキャリア官僚二人(ともに28歳)が、コロナ感染の影響で売り上げが減った個人事業主を対象にする、国の「家賃支援給付金」を騙(だま)し取ったとして逮捕されるという事件が報じられました。
いつもそうですが、災害など人の不幸を利用して悪事を働く不心得者が後を絶たないのは、人間の悲しい性(さが)なのでしょうが、切ない思いをどうすることもできません。

私たちの日常の学びについて、仏教では「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」の「三学(さんがく)」が教えられています。「戒」は良い生活習慣を身につけること。「定」は身心を静かにして精神を集中し、思いが乱れないようにすること。
「慧」はその静かになった心で正しく真実の相(すがた)を見極(みきわ)めることです。つまり、規律ある生活により心がよく落ち着き、そこで正しい世界観が持てるようになるということ。逆に言うと、正しく真実の相(すがた)を見極める智慧(ちえ)は、安定した身心から生まれ、その心身の安定は規律ある生活によって得られるということです。

「戒」はインド語「シーラ」の訳語で、本来は習性・習慣の意味ですが、反復(はんぷく)習慣的に修習(しゅうしゅう)すべき行持(ぎょうじ)(修行生活)を言います。それが習慣化すると「身に威容(いよう)あらしむ」つまり容姿(ようし)に表れるようになります。
幕末に欧米を訪れた武士が、出会った人たちから尊敬の念をもって接せられたのは、文化の違いを超えて、人間として風貌(ふうぼう)や立ち居振る舞いに、人の心を動かすものが感じられたからなのでしょう。
芸術でもスポーツでも他のどの分野でも、本物になるためには、まずその基本を繰り返ししっかり身につける。そこで初めてその人独自のオリジナルが力を持ちます。
そしてさらに人間生活者としての基本が身につけば、目先の誘惑や欲望に振り回されないブレーキがかかる。生活の中にこれだけは譲れないという規範や誇りが生まれます。

生活を整える基本は、仏教の「中道(ちゅうどう)」の教えです。すなわち極端(きょくたん)を離れてバランスよく暮らしを立てるということです。睡眠や食事の偏(かたよ)りは、身心に重大なストレスを与え、知らぬ間にイライラしたり、集中できなかったり、続かなかったり、我慢(がまん)ができなくなったりします。
まず誘惑のスイッチを切り、生活と身の回りを整えることから始めましょう。

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