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会長のつぶやき

会長就任

令和7年6月27日、当会で役員改選が行われ、五十嵐 司也が会長に就任しました。
よろしくお願いします。

※旧会長の「つぶやき」につきましては、当分の間掲載しておりますので、ご覧ください。

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会長 五十嵐 司也(いがらし もりや)

【生年月日】1949年(昭和24年)9月7日

【住まい】福島県会津若松市

【家族構成】3人家族

【経歴】大学卒業後、会津若松市役所に38年勤務。その後、会津鉄道株式会社で役員を11年、当会の監事として2年間務めて、会長へ就任。

【趣味】マラソン大会への参加
 ガンを患い、健康管理の一環として、ジョギングを始め、2008年に鶴ヶ城マラソンに参加。
 その後数々の大会に参加し、今年10月の水戸マラソンで95回目。早い機会に100回目の大会出場を目指します!!
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第四十二回

2021-12-20
 ここ数年地球温暖化の影響と思われる災害が頻繁(ひんぱん)に起き、その度に甚大(じんだい)な被害を被(こうむ)っています。世界中の指導者が、その対策について議論を重ねていますが、結局は自国の利益を最優先する立場を離れることはできないようです。
 私たちが、より便利で快適な生活を求め、その欲望を満たそうとすればするほど、地球やそこに生きる命を脅(おびや)かす方向へと突き進まざるを得ないという結果を招いています。人類の発展が、好むと好まざるとにかかわらず、すべての存在を危(あや)うくしてしまうことを、もはや止めることはできないのでしょうか。

 以前「不如意(ふにょい)」(意の如くならず、思い通りにならない)ということについて書いたことがありました。
 仏陀釈尊が覚(さと)られた真理は、「縁起(えんぎ)の理法(りほう)」といわれる仏教の根本原理です。「縁起」とは「縁によって起こる」ということで、あらゆる物事は、どんな事でもそのことだけ単独で存在するということはあり得ません。全て関係し合うことで成り立っているということです。私たち一人ひとりも勿論(もちろん)関係性の中に生存しています。世の中に私に関係ないものなどないのです。言い換えると、全てはつながっているのです。私は、私以外の全てに支えられ、そして支えているのです。
 しかし、関係性の中にあるということは、物事は必ずしも自分の思い通りには進まないことを意味します。
 自分では知ることもできない数多(あまた)の条件(縁)によって、現在も未来も成り立つわけですから、自分に都合良くばかりになるはずがありません。それを「不如意」と言います。
 天気一つ思い通りになりません。降る条件が整えば雨が降り、照る条件になれば晴れます。ですから私たちが人生を生きるとは、不如意を生きることになります。そして、私たちの都合や願望と、不如意である現実とのギャップが「苦」となります。釈尊が「人生は苦なり」と語られたのは、不如意の現実を思い通りにせずには収まりがつかない私たちを、言い当てられた言葉なのでしょう。

 親も子も互いに選ぶことはできません。老化せずに長生きしたいといいますが、できるでしようか?不便や不快や不足は価値が低いからと改善しようとし、不如意に直面することを少なくしようと努めてきました。
 「ともに生きる」とは、不如意を生きることです。目を逸(そ)らさないことです。「思い通りにはならないが、成るようには成る」のです。

 不如意の現実をきちんと受け止めることが、目覚めのスタートです。思い通りにならない現実から逃避(とうひ)せず、そこで感じ、考える。そのことが私を本当の私にしてくれるのでしょう。

第四十一回

2021-11-15
 近年とみに命が軽く扱われる事件が多発しているように感じられます。皆、口では命の大切さを唱えていますが、現実には「いのち」の意味を問うことも学ぶこともなく、非常に粗末(そまつ)にされていると思われてなりません。
 自分の思い通りにならない不満や不安を不特定多数の人にぶつけ、意味のない迷惑を振りまいて何の痛痒(つうよう)も感じない、そういう感覚が増えていくのではないかと空恐ろしい思いを強くしています。
 執拗(しつよう)に繰り返されるいじめを受け、地獄の苦しみに耐えきれず必死にSOSを発信しているにもかかわらず、そのことを受けとめることもせず自殺に追い込んでしまうケースや、事件に遭(あ)っていのちを失った人の家族に対する、SNS等での誹誇中傷(ひぼうちゅうしょう)の中身や数の多さにはただただ驚きあきれるばかりです。
 また、歩きスマホによる事故の多さと、その後遺症に苦しむ人たちの様子や後悔する姿とメッセージが報じられるなど、インターネット、パソコン、スマホ等の過剰(かじょう)なまでの普及発展が、人間の心や身体を蝕(むしば)み、社会生活に及ぼしている悪影響ははかり知れないものがあるようです。私たちは、手軽に手にした便利さに振り回され、逆に不幸を招くという皮肉な現実に曝(さら)されているようです。

 「いのち」は、生まれたくて生まれ、生きたい、成長したい、わかり合いたい、つながりたいと生きているに違いないのです。しかし、そのいのちの管理人ともいうべき「私」は、生まれて生きる意義や方向を見失ってしまっているようです。
 命がその人の母胎(ぼたい)に宿り、そして人間として誕生した。つまりこの私は、いのちに選ばれて生まれ、今、いのちをお預(あず)かりして生きているのです。そして、同じ生きるのなら人格ある人間として「私」として生きたい。「私」としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいということを、心の底で願っているのでしよう。生きたいのです。殺したくも殺されたくもないのです。

 「いのち」とは、生きようとする願いや働きや力のことだと思います。
 そしてあらゆる「いのち」は、つながりながらいきいきと響(ひび)き合い、生かしあう世界(これを「極楽」、「浄土」という言葉で表現したのです)へと向かっている。そういう点で「いのち」は「仏性(ぶっしょう)(真実の在り方を求める潜在力(せんざいりょく))」であり、私たちはそういうものを備(そな)えて今を生きているということです。
 ですから、私が私として生きるとは、「私 事(わたくしごと)」ではありません。いのちを含めた私を私有化(しゆうか)することは許されません。いわば「公共的(こうきょうてき)な私」を生きているのですから、人間として生きる責任があるのです。そのいのちは、私の人生を通してどうなりたいと、どうありたいと願っているのでしょう。

 日常の生活の中で、時に感動を共有し深く共感する経験をします。そんな時、今日(こんにち)まで生きていればこそ出会えたと思います。生きることは出会いです。それは、自分の外にあるものとの出会いもありますが、自分自身に感動をもって出会うこともあるのです。
 星野富弘さんの有名な詩があります。
  いのちが 一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが 苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった
(『《花の詩画集》鈴の鳴る道』偕成社)

 様々な環境条件の中で、この私が現に生きていると「今」を自覚した時、自(みずか)らの内から、私としてあらゆるいのちと共にいきいきと生きたいという、いのちから私への呼びかけが聞こえてくるでしょう。

第四十回

2021-09-29
 何年前になるでしょうか、「世界に一つだけの花」という歌が、多くの人の共感を呼び流行しました。
 他人と比べてナンバーワンにならなくてもいい。あなたはもともと世界に一つだけのオンリーワンなのだから、勝ち負けに縛(しば)られず、オンリーワンとしての自分を大切にすればいいということで、多くの人の気持ちが楽になったようです。
 しかし、そのオンリーワンの花は、どこに咲くのでしょう。また何の力で咲くのでしょう。私が私の花を咲かせたいと思えば思い通りに実現するのでしょうか。

 加賀千代女(かがのちよじょ)という俳人が詠んだ「うつむいた処(とこ)が臺(うてな)や菫草(すみれぐさ)」という句があります。
スミレの花をよく観ようとうつむいたのでしょうか。そこで見つけたのは、スミレの花(私たち)を黙って支えている台(うてな-大地)であったということです。

 私たちの生活のすべては、どのようにして成り立っているのでしょう。私たちは何の上に生活しているのか。つまり私の足の下はどうなっているのか。そのように見つめ直してみろと、私の生活、人生のすべてが、現に支えられていたと気づかされます。そういう大地(うてな)がこれまでもこれからもあるのだと。快不快、損得、勝ち負けの一切は、その上の出来事なのでしょう。

 仏陀釈尊(ぶっだしゃくそん)(おしゃか様)は「人生は苦(く)なり」と説かれました。その苦とは、人間として生まれ生きることは、思い通りにならない(不如意(ふにょい)-意(い)の如(ごと)くならず)ということを表しています。その思い通りにならない人生に耐え、受けとめていく場を「娑婆(しゃば)(堪忍土)(かんにんど)-今現に生きている世」といいます。そしてその娑婆の不如意が、実は人間が人間に成り、人間が人間であるために大切な意味をもっているのです。
 しかし、何の支えもなく孤立無援の者にとっては、娑婆の不如意を生き抜くことは困難で、ひたすら娑婆の都市化(如意-意のごとくなる)を目指すことになってしまいます。

 自分の思い通りには進まない人生だけれど、安心できる大地(うてな)は、すでに私の足下で支え続けていると知るとき、不如意の娑婆が学びの場となります。
 その学びの場を通じて人生が深まり(価値観の変化)、人間に生まれた私が、あらゆる生命(いのち)とのつながりの中で、生かされて生きていることの意味や喜びが実感(生き方の確立)できるのでしょう。
 代行不能、比較無用の尊い人生を、本当に尊いものとして生きてゆきたいものです。

第三十九回

2021-09-01
 最近、社会での様々な事件、犯罪、災害などを目(ま)の当たりにして、何かしら「私が生きる」ということへの信頼感というか、安心感というものが、崩(くず)れてきていると感じさせられます。
 世界中に広がる人種、ジェンダー(性)、障がい者に対する差別、弱い立場の人に向けられるハラスメント(セクシャル、パワー、カスタマーなど)、児童、高齢者、障がい者への虐待やいじめ、力による少数民族への人権侵害など、コロナ禍、地球規模の気象変動と相まって生きづらさを加速させています。
 現代の人々の行動から垣間(かいま)見られる状況は、何か衝動(しょうどう)的、刹那(せつな)的で、「"自尊(じそん)感情の喪失"━自分の意志や考えなく多数派に所属、疲労感の外見と幼い内面、自分の本当の欲求が不明、総じて自己肯定なく他とのつながりも弱く、結果不平、不安、不満、不足が内外へ向かってしまう━」(ある方の文引用)ということがよく表れていると思います。

 「私は生まれたくて生まれてきたのではない」という人がいますが、確かに頭で考えた「私」はそうかもしれません。しかし「いのち」は生まれたくて、生まれる目的や意義があって生まれてきたに違いありません。それを私は、外の空気を吸ったとたんに忘れてしまったのでしようか。ならばそれを思い出すのが、私たちの学びなのかもしれません。

 私がこの私に生まれたということに、意味や価値がないはずがないと思います。どの人のどの人生もです。
 今のこの私は、地球上に生命(いのち)が誕生して以来、三十数億年ともいわれるなが~い生命(いのち)の営みの結果です。つまり私が誕生するのに三十数億年かかったのです。さらに未来を考えても、今後永久にこの私は出現しません。そういう奇跡のような一瞬が私の人生です。そしてその一瞬は無限の内容を含んでいます。私に先立つ無数の生涯が、遺伝子(いでんし)として私に届いているのですから。

 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉があります。これは「ただ我独(ひと)りにして尊し」ということで、私が私として生まれたそのこと自体が、他と比べる必要なく尊いということです。かけがえのない人生が私に与えられている。それはどんな場合も代行不能である。であるなら、私の人生は、たとえそれが自分にとって不満の多いものであっても、私が受けていくしかありません。私に必要な人生が私に与えられているのです。

 あるポジションにいる人は、そのポジションのことだけ見れば代行可能でしょう。しかし私が務めるそのポジションは唯一のものなのです。
他の誰かが務めれば、それは私が務めるのと全く同じにはなりません。
 私に与えられ、私が生きるべき人生を私が生きなければ、自分で自分の人生を粗末(そまつ)に無価値(むかち)にしてしまうことになります。
言い換えれば、私には私を生きる責任があるのです。
 また、私には同時に、私に関わる一切が付与(ふよ)されています。家族や友人、環境や出会う一切が、それらを含めたすべてが、大きな願いとはたらきに支えられているのです。

 人間として本当に大事な真実真理、このことに出会えない人間ほど恐ろしいものはありません。出会いの縁を願ってやみません。

第三十八回

2021-07-28
  新型コロナウイルス感染が収まらない中、オリンピック競技が本格化しました。開催の是非に揺れた国際的祭典の舞台も、いざ選手たちの躍動する姿を目(ま)の当りにすると輝きを増し、応援にもつい力が入ってしまいます。
 一方で、一般の人たちには緊急事態宣言発令中で、外出自粛が求められていますが、街には若者を中心に人があふれています。

〔7月26日付毎日新聞記事〕
 この日都内の感染者数(1,763人)は、5日連続で1,000人を超えたが、夕方になっても人出は減らない。センター街のビルを警備する男性(62)は、「居酒屋もやっているし、マスクをしない人もいる。危機意識が全くない」と眉をひそめる。
 午後6時前、駅では「緊急事態宣言を解除せよ」などと書かれた手旗を持った人たちが、太鼓をたたきながら主張を呼びかけている。
 夕闇が深まると、カラオケ店には順番を待つ若者があふれた。店から出て来たさいたま市の男性会社員(27)は、大学時代の友人と2年ぶりに会ったという。3回目の緊急事態宣言までは外出を控えたが、「我慢をしたところで変わらない気がした。我慢の限界」と話した。
 人の流れに反して道玄坂を上ると、未明まで営業する居酒屋があった。満席で入店まで20分ほど待つ。
 午後10時過ぎセンター街に戻ると、バーからあふれた外国人が路上で缶ビールを飲んでいる。店をのぞくと、マスクを外した外国人らでごった返していた。

 それぞれの人にそれぞれの言い分があるのでしようが、政府や都庁が宣言を出そうが出すまいが、今は緊急かつ危険な状況にあることは誰も疑う余地のないことでしょう。そのような重大事が、都民に十分に伝わっていない(伝えられていない)ことに、改めて驚きと恐怖を感ぜずにはいられません。
 ひとたび感染してしまうと、本人はもとより周りの人たちにも大変な迷惑をかけることになりますし、重症化しやすいことも、後遺症に悩まされることも繰り返し報じられています。

 今となっては一日も早いワクチン接種が、全ての人にゆきわたることと、改めて多くの人たちに理解を促(うなが)し、何とか感染を止める手立てを講じてほしいと願うばかりです。

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