会長のつぶやき
会長 武藤淳一
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
【住まい】福島県会津若松市
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
【本職】寺院住職
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
【最近読んだ本】天地明察
第二十三回
2019-05-09
先日気になる調査結果が、新聞・テレビで報道されました。
一つは、内閣府が昨年12月に初めて調査を実施した、中高年(40~64歳)の引きこもり状態の人の数を公表した記事です。
半年以上家族以外と交流せず自宅にいる人が、全国に61万3千人(内男性76.6%)いるという推計値が示されました。その期間は7年以上が半数近く(30年以上は6.4%)を占め、長期化、高齢化が裏付けられました。ちなみに若年層(15~30歳)については、2015年の調査によると約54万人で、今回はこれを上回る数となりました。
3人に1人が、高齢の親(80~90歳代)に経済的に依存していることも判明。「8050問題」さらに「9060問題」が指摘され、支援対策が急務となっています。
専門家は、80代90代の親が亡くなった後、肉親も少ないうえに地域とのつながりも薄くなり、問題が深刻化しやすいという分析を行っています。
もう一つは、国立社会保障・人口問題研究所が、都道府県別の「日本の世帯数の将来推計」を公表したことです。
21年後の2040年には、世帯主が65歳以上の高齢者世帯のうち一人暮らしが占める割合が、全ての都道府県で30%を超える(福島県は36.7%)ということです。特に東京など15都道府県では、40%以上になるということが推計されました。
人口が多い団塊ジュニア世代が65歳以上になり、高齢者数が3,900万人超とピークに近づく一方で、少子化の影響により社会保障の支え手となる現役世代が激減します。このことは高齢化の進行に加えて、未婚の増加が背景にあると研究所は分析しています。
今後私たちの社会では、増え続ける一人暮らし高齢者の社会的孤立を防ぐとともに、どう支えていくかが大きな課題となってきます。
今社協が取り組んでいるボランティアの養成、地区社協の設立は、この課題に向き合っていくために、非常に重要な意味を持つ事業となります。行政、地域住民と社協が一体となって取り組んでいくためには、どうしても地域の方々の理解と協力がなくてはなりません。
皆様のご理解をお願いするとともに、社協としてもさらに力を尽くしていかなければならないと考えております。
第二十二回
2019-03-08
最近歳のせいかどうかわかりませんが、現代社会における人間関係が、以前に比べて随分と違ったものになってきたなと感じさせられます。
特に地方では、町内や地域など身近な人たちとの付き合いは、互いに良いところもイヤなところもよく知っていて、それを承知の上で付き合っていました。しかし都会では、それぞれ良いところだけを見せての付き合いが多いように思われます。互いに都合の良いところだけで対応しようとすると、かえって相手のイヤなところがクローズアップして見えてしまいます。それはバランスの良い関係とは言えません。
私たちはいつの頃からか、日本中を都市化して、あらゆる不便や不快を排除し、自分のやりたいことが自分の都合通りにできることを目指してきたように思います。その結果として、今の日本ではあらゆる場面で個別化が進み、個人主義的生活や言動、またワガママを謳歌おうかしているように見えます。そしてそのことが人間関係を希薄化させ、問題の種になっている現実があります。
自分の思い通りにならないことに対する耐性たいせいの欠如けつじょから、現代人の多くは自分で自分を肯定できなくなると、説明できない攻撃性や喪失感を持つ傾向があるようです。それは外へ向かっては暴言・暴力・虐待・いじめなどになり、自分自身に向かうと、無気力・拒食きょしょく・自傷じしょう・引きこもり・自殺などにつながっていくようです。いま日本中が癒いやしのオンパレードなのは、その解消のためなのでしょうか。
人間を育てる原点は、何といっても家庭にあると思っています。
“三つ子の魂百まで’’(幼い時からその身に備わった性質は、歳をとっても変わらない)
“雀百まで踊り忘れず’’(スズメは生まれてから死ぬまでとびはねる癖が抜けないところから、幼い時におぼえた習慣は、歳をとっても変わらないことを言う)
家庭の中心は何か、人間を育てる基本をどこに、何に置くのか、私たちは今真剣に考えなければならないのではないかと思っています。
第二十一回
2019-01-04
新年明けましておめでとうございます。
市民の皆様方におかれましては、新たな気持ちで新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。昨年中は皆様方より温かいご支援を数多くお寄せいただきましたこと、この場をおかりしまして厚く御礼を申し上げます。
昨年は、社協創立70周年、老人福祉センター・希ららは開設40周年という大きな節目をそれぞれ迎えることができました。この記念すべき年にあたり、いくつかの記念事業・行事を実施させていただきましたが、おかげさまでどれも実りのあるものとなり、改めて社協が担うべき役割について考える大事なきっかけになりました。
5月に開校式が行われた「ボランティア学園」は、想像以上に受講希望があり、定員を超えた講座もあったほどで市民の皆様の関心の高さを感じさせられました。それぞれの講座で学んだ知識や経験を、ぜひとも今後の活動に生かしてほしいと切に願っております。
また、社協が全力で取り組んでおります「地区社協」設置事業も、地域の方々のご理解とご協力のもとようやく東山地区に「東山・人と地域をつなぐ会」として発足にこぎつけることができました。
地域の福祉課題を地域の人々の手で掘り起こし、共通認識に立って解決につなげていくことこそ、今望まれている地域福祉の向上を図る方向を示しているものと考えております。今年はさらに多くの地域にこの輪を広げていくよう取り組んでまいります。
社協創立71周年へのスタートとなる新年を迎え、役員・職員共々に「誰もが安心して暮らせるまちづくり」の実現に向けて力を尽くしていく所存でありますので、市民の皆様におかれましても、更なるご支援ご協力をお願い申し上げます。
結びとなりますが、今年一年が皆様にとりまして幸多い年となりますようご祈念申し上げ、新年のご挨拶とさせていただきます。
第二十回
2018-11-29
今年もあとひと月と少々。私もおかげさまで元気に過ごすことができましたが、例年に増して忙しい年で、ずいぶん各地を回らせていただきました。錦秋の侯には、あちこちの美しい紅葉も愛でることができ、これは役得かなと楽しませていただきました。
自分の年齢のことはあまり気にかけずに過ごしてきましたが、もうすぐ喜寿を迎えるということで、周りがそのように接してくれるせいもありますが、やはり自分自身で「老い」を感じさせられることが多くなりました。
「老い」に至る人生の歩みは、どれ一つとっても「夢」ではなく「事実」です。老いの道中は、「叶かなわない」「意のままにならない」ことの中で、苦渋くじゅうを味わい、また悲しみのなかで人は教えに出会い、ものごとを正しく観ることを知ります。それは「あきらめ」ではなく「正しく観る」ことで、他人事ではなく「自分の事」として見えてくるのだと思います。
樹木に接していると、そこに様々な教えを感じとらせてもらえます。春に芽を吹き新芽が育ち、やがて新緑の季節となる。まるで孫が日に日に育っていくように…。
そして季節が移ろい、秋になり冬に向かおうとする頃、広葉樹は錦秋の彩いろどりを見せてくれます。人を紅葉もみじ狩りに向かわせるのは、錦秋の彩りと、自分の人生とを重ね合わせ、春の桜にはない「人生の趣おもむき」を感じさせてくれるからだと思います。
やがて落葉の季節ときを迎えます。しかしこのときにはすでに新芽が準備されているのです。
「老い」は単独であるものではなく、「いのち」の連なりであり、バトンタッチのときでもあります。
また大地へ還ることは、あらゆる「いのち」を生み出す源となるので、「老い」の果たす役割は「尊い」ものであるといえます。
「老い」もこのように考えてみると、自分のものと独占していることが間違いであることになります。自分の「老い」から解放されて「つながり」のなかで考えてみると、大きな「つながり」の中に連綿と続く「いのち」があります。そのなかに一人一人の「老い」があるということです。
このように「老い」も自分の手元から解放されて初めて、「衰おとろえる」ことから意味が転じて、大きな「いのち」としてよみがえるという世界が見えてきます。
第十九回
2018-09-07
「少子高齢化社会」ということが言われて久しいのですが、その少ない子供の世界に異変が起きているようです。子供の世界といってもそれは常に「大人社会」の投影なのですが、むしろ「人間」そのものの生き方に異変が起きているといえるように思えます。
教育も科学も改治も、「人間性」を育はぐくむことよりも合理性を基とした「学力」「経済」「効率」を優先した方向に進められ、私たちは「より便利に・より快適に」を合言葉として生きてきました。そして、今私たちの暮らしは、一見衣・食・住が満ち足りているように見えますが、本当に幸せを感じて生きているのでしょうか。
「衣食足りて礼節(礼儀と節度)を知る」(衣服や食物は生活の根本、それが満たされることにより心にゆとりが生まれ、礼節を知り、人間らしく幸せに生きることができる)という言葉がありますが、どうも今の日本は、その逆をいっているように感じられます。
眼を大きく見開くだけがよく見ることではないのです。眼を閉じることでしか見えないものがあります。懸命に耳を傾け必死で聞こうとするとき、また物体の表面のほんの僅わずかな凹凸おうとつを指先で知ろうとするとき、つまり集中しようとするときには思わず眼を閉じます。
私たちの眼は外向きにできているので、自分の外はよく見えているように思っています。しかし、見えたつもりのその外は、編集された虚像きょぞうであることが多く、直接体験として見ていることはまれなのではないでしょうか。
また、鏡に映らない自分の姿はどうやって見、その姿を成長させていくのでしょうか。
私たちは、自分の本当の姿ー怒ったり、悪口を言ったりしている顔、不ふ貞て腐くされたり、虐待やいじめをしている姿や態度、自分のすぐ近くにある背中など、生涯見ることができないのです。
やはり人間には、自分というものを隅々すみずみまで映し出してくれる鏡≪真実の教え≫がなくてはならないのでしょう。
自分の本当の姿を知ったとき、他人の不都合を一方的に攻めるだけでなく、自分の姿を重ね合わせて、それなりの物言いができるはずです。
そういう指摘なら、いわれた方も受け容れやすいでしよう。