会長のつぶやき
会長 武藤淳一
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
【住まい】福島県会津若松市
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
【本職】寺院住職
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
【最近読んだ本】天地明察
第十三回
2017-11-01
「私のわがままは当たり前、他人のわがままは許されない」
ある所で目にした掲示板のことばですが、いろいろなことを考えさせられます。
私たちは、自分のやっている(言っている)日常の行為やことばについては、すべてにちゃんと言い訳があるようです。
「こうこうだから、このくらいのことはさせてもらわないと」「こうするのも仕方がないではないか」などと言ったり思ったりしています。ところが同じことを他人がしているのを見ると「あんなわがままな」「許されない」となってしまいます。
先日、私のお気に入りのグラスが見当たらないので聞いてみると、「あゝあれは洗っていたら“割れて”しまいました」「え、“割って”しまったのか」という会話を交わし、後で苦笑してしまいました。
自分がやると「割れた」、他人だと「割った」ということになります。常に「私には責められるべき何の問題もない」ことにしているようです。
「福は内、鬼は外」と、追い出した鬼が隣の家で何をしようが、「虫おくり」でおくった虫が隣の町で何をしようが、まるでトイレの水を流したら汚物はこの世から消えてなくなるように思って暮らしています。
他人よりも自分の方がいい目にあったときに満足があり、幸福になれると考えています。ですから「他人」とは、いつも私の満足感を満たし、私に優越感を抱かせるための比較対象でしかありません。
こういう私の在り方を見つめ直し、自己にかけられた願いや、私が存在している意味や価値を発見する営みを「宗教」といいます。
そしてその営みによって、他と共に生きることが自らの生きる意欲となるような道が開かれていくことを「救われる」というのです。
第十二回
2017-09-06
このところ私の勝手な都合により「つぶやき」をちょっとお休みしてしまったこと、申し訳なく思っています。
今年6月15日をもって、私も晴れて後期高齢者の仲間入りをさせてもらいました。ついに未知の分野に足を踏み入れてしまい、戸惑いを覚えながらも改めて自分自身を見つめ直す機会をもらったような気がしています。
運転免許証更新の年にあたり、前回(72歳)に続き2回目の高齢者講習を受けてきました。今回は「認知機能検査」が加わり緊張しながらの受講でしたが、なんとか合格点をもらえてホッとしています。
これからは益々機能の衰えが進みますが、自分の意志で免許証を返納できるか自信がありません。たぶん家族に無理やり取り上げられそうな気がしています。車を手放した高齢者の問題が我がこととして感じられる時期が迫ってきた思いです。
9月18日に開催される会津若松市敬老会の招待状が送られてきました。私も長寿を祝っていただける身になったのかとしみじみ感慨に浸らせてもらいました。
「老人」という言葉が急に身近になり、これから親しくつきあっていかねばと思いを新たにしております。
そんなことを考えていたらなぜか急に、社協の職員さんに介護をお願いする日がそこまで来ているような気がしてきました。その時は何卒よろしくお願いいたします。
第十一回
2017-04-17
釈尊※は「私たち一人ひとりは、どの人も必ず、生まれる目的や意味や価値があって私として生まれてきている」ということを明確に示してくださいました。
それを象徴的に言い表したのがこの「天上てんじよう天下てんげ唯我ゆいが独尊どくそん」という言葉です。
「どのような境遇においても、ただ我独ひとりにして尊とうとし」ですから、「他の人と比べて俺は偉いんだぞ」と言っているのではありません。
私たちが人間に、自分に生まれたことは、他と何ら比べる必要もないほど尊いことです。この世界の中に尊くない人は一人もいない、みんな尊い人として生まれてきている、そのことに気づいてくれよと願いながら説いてくださいました。
他の人の尊さを認めるということで、私たち自身が尊いと呼ばれるにふさわしい人間に成ることができます。人間性を回復することができます。
他人の人間性を奪えば奪うほど、私自身が人間でなくなっていく。そんなことを私たちに教えてくださっているのがこの言葉です。
自分の尊さを裏切らない自分でありたいものです。
※釈尊…仏教を開いた釈迦の尊称
第十回 新年度会長訓示(4.3実施)の要旨
2017-04-04
平成29年度の開始にあたり、一言所感を申し上げます。
おかげ様で、第一次経営改善3ヶ年計画に則りまして、皆様方の努力により、その実じつを上げることが出来ました。
私は数字上のことは詳細に述べませんが、確実に単年度収支で黒字決算という大変有難い形が達成されました。これは支出の面での事務事業見直しやコスト削減などもありますが、その中には皆様方の給与のことも含まれていたと思います。
しかし、まだまだ課題を抱えています。今年度からの第二次経営改善3ヶ年計画は、収入の確保による財政基盤の確立と社協本来の地域福祉事業ということを考えていかなければなりません。
皆様方の努力に報いる日が1日も早く来るように、さらに力を合わせて取り組んでいかなければならないと思います。
今年度も、新しい目標に向かって挑戦していただきますようお願いいたしまして、私の挨拶と致します。
第九回
2017-02-01
昔から教育は、知育・徳育・体育から成ると言われていますが、最近では「食育」を加えるよう提唱されているようです。
専門家によると、「キレる人ほどジャンクフード(低栄養価食品)やソフトドリンク類の飲食率が高い。そういうもので満腹にするとまともな食事が摂れない。そこでまた間食をする。二年ほど繰り返すと慢性化して、血糖値が上がった後急降下する低血糖値症候群になる。血糖値が下がったときが問題で、イライラして集中力がなくなる。するとアドレナリンが自然に出てくる。これは暴力ホルモン、闘争ホルモンですから、誰かが注意したりするとキレるようになる。」ということだそうです。
私は常々「食」(命あるものをいただく)は「薬」であり、健康のバロメーターは「快食、快眠、快便」であると思いそのように心がけています。
「食」とは、私たちの命と身心を養い育てて保ち続けるものです。いろいろな「食」が岨囁そしゃくされ、消化吸収されて私の体と命の一部となります。
食の安定は身心の安定をもたらし、意欲や行動にも大きな影響をおよぼします。出来うる限り偏りのない、旬の食材を食べるよう心がけ、身心を整え、意欲をもって生活や仕事に向き合っていきたいものです。