会長のつぶやき
会長 武藤淳一
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
【住まい】福島県会津若松市
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
【本職】寺院住職
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
【最近読んだ本】天地明察
第十八回
2018-06-14
ものごとをプラス・マイナスに分けて、マイナスをどうプラスに受けとめ、解釈して転じるかという「プラス思考」がもてはやされているようです。
もともと西洋と東洋(特に日本)では、ものごとを受けとめる感覚が違っていたようで、明治以降西洋的思考(合理性重視)を受け入れるようになってから変化してきたようです。
西洋には雨か雪のどちらか一方だけで、雨と雪が混じって降る「霙(みぞれ)」という言葉・概念はないのだそうです。
「生死」━これは「しょうじ」と読み、ものごとの成り立ち(必ず変化する)を表す言葉で、執着しゅうちゃくする心から生まれる「迷いの世界」を言いますが、今は「せいし」と読み、「生」と「死」を分けて考えるようになりました。「生」は輝かしいプラスで、「死」はマイナスで避けて通りたいと、視界から遠ざけようとする傾向が強まり、「死」から学ぼうとする感覚が薄れてきたように思えます。
いわゆる「プラス思考」━志向ですが、その基準はいつも「その時の私の都合」です。事実は厳然たる事実であって、私にとってのプラス・マイナスの価値は相対的なものでしかありません。辛く悲しいことはマイナスで、楽しく嬉しいことはプラスということではないのです。プラス思考に縛られて、マイナス(に見えること)に価値がないと考えることこそ問題なのです。眼前がんぜんの現実をいかにプラスに解釈し直すかに腐心ふしんする前に、与えられた事実としてそのまま引き受け、そこから出発するのです。
一見マイナスに見えることから、私たちはいかに多くのことを教わり学ぶか。けがや病気をしてはじめて気がつくこと、大切な人を失ってはじめて目を覚まさせられること、高齢になってつくづく感じることなどがあるのでしょう。
実は私たちは互いに不完全同士ということで平等なのです。わが身に起こっていることが、自分にとって好ましくなく感じられることがあります。しかし私たちには、縁あってこの身に受けた現実は誰も代わってくれる者はいないのです。いないというより、代わることそのことがあり得ないことなのです。
たとえその時、辛く悲しいことであっても、本気で自分のこととして引き受け、しっかりと現実に立ち向かおうとするとき、勇気や元気が出てくるのです。出来ることは惜しまずやりましょう。本当にできないことはできないと認めて、くよくよ悩まず、手伝ってもらいましょう。
第十七回
2018-04-16
今、私たちを取り巻く世界は、“共に生きあう”ということからはかけ離れた、人と人とが傷つけあう、底の知れない深い悲しみ、苦しみに満ちた世界を造り出しています。
国や一部の人間が、武力を背景に「利」を得ようとする傾向が強まり、私たちの国も、その流れに巻き込まれようとしています。
国の歩むべき方向を定める最高機関であるべき国会でも、国を動かすリーダーたる人々が、醜態しゅうたいをさらしながら恥はじることのない姿は、何ともつらく悲しい思いにさせられます。
次の時代を受け継ぐべき若者や子供たちに、どんな影響を及ぼすのか不安になります。
世の中には、殺されていい人なんて一人もいないし、人を殺す権利を持つ人もいません。いじめられるにふさわしい人もいなければ、いじめが許される人もいないのです。
どの人も皆尊い。その尊さをどんなことがあっても侵おかしてはならないし、その人が尊い人生を尊く生きようとすることを妨さまたげてはならないということです。
他人の人間性を奪い、差別し、無視していい気になっているその姿そのものが人間性を失っている姿です。極めて情けない姿です。
他の人の尊さを認めるということで、私たち自身が尊いと呼ばれるにふさわしい人間に成ることができます。人間性を回復することができます。
他の人間性を奪えば奪うほど、私自身が人間でなくなっていく。
そんなことを教えてくれる教えに皆が出会ってほしいと願わずにはいられません。そして、自分の尊さを裏切らない自分でありたいと思います。
そんなことを教えてくれる教えに皆が出会ってほしいと願わずにはいられません。そして、自分の尊さを裏切らない自分でありたいと思います。
第十六回 新年度会長訓示(4.2実施)の要旨
2018-04-04
いよいよ新年度の幕開けです。
本会は、今年度の基本方針にありますとおり、昭和23年若松市民生事業助成会として発足し、今年で70周年を迎えます。しかし、現在の社協が置かれている立場は非常に重い物があると考えています。
世の中がますます激しく早く変化する中で、どのようにしたら地域社会の福祉のニーズ、どういうことが必要なのかを捉えていかなければならないと思います。
今年度は新たな事業を展開します。3年目になる地域福祉活動計画、他各計画の内容を十分に吟味し、精査し、地域の福祉の発展のために十分な成果が上げられますよう力を尽くしてください。
また、職員同士のつながりをなお一層密にし、お互いに切磋しながら事業を展開していけますよう、本年度もよろしくお願いします。
第十五回
2018-02-09
最近、他人と上手にコミュニケーションがとれない人が増えているといわれています。「対人恐怖症」は近代日本人の特徴的な心の病で、明治時代以前にはほとんどなかったそうです。
ところが、近年この病も少なくなり、「醜形しゅうけい恐怖」(自分の顔や身体が醜いと思い込む)、「自己臭しゅう恐怖」(自分は臭い、だから人に嫌われている)、「食行動異常」(自分の体型がスリムになりたい)といった外見的な姿かたちの悩みへとすり替わっているのだそうです。
他人に愛されたい、受け容れられたいという幼稚で強迫的な願望と、現実に自分を抑制し、あるいは他人に合わせたり、仲良くできない自信のなさから、うまく対人関係がもてないのは、自分の人間性や性格の問題ではなく、外形的欠点(実際は欠点ではないのだが)のせいにしてしまう。だから、顔や身体の美醜びしゅうを強調する情報がメディアに氾濫するのです。ともすれば現代人は、テレビや雑誌など視覚中心の外見の情報にとらわれ、自分自身の内面を見る能力を奪われ、見る努力を失い、内面への関心は急速に薄らいでいます。
ある青少年に関する調査によると、今一番欲しいものを問われ、性格や能力よりも「美しい顔と身体」と答える子供が多いそうです。見る、見られることばかり気にしているのです。人生は”他人の眼”のためにあるのです。では本当の私はどこにいるのでしょう。私は私自身をどう見ているのでしょうか。
『身、自みずからこれを当うくるに、有たれも代わる者なし』
この私以外に私はいないし、この私の人生以外の人生を送ることもできません。良いも悪いもこれしかないのですから、これで生きていくしかありません。
では、この私に安心して、他人と共に生きる方法はないのでしょうか。長所もあるし欠点もある私です。とても完璧などではありません。しかしそれはそのまま隣人もそうなのです。それぞれ足りないところを持つ者同士なのです。それを認め合って、できることを惜しまずやり、できないことは安心して頼る。そうやって私たちは人間の社会にしているのです。私に安心できると、他人とも安心して付き合えます。自分が自分に成れば、共に生きる世界が開かれてきます。
顔も手も足も身体も、みんな仏さまからの大切な預かりものです。
そのまま、ありのまま。それでいい。失敗もする。失敗したらこの次はちやんとやろうと思うことが大事。無駄な人生はありません。無駄な時間もありません。
丁寧に生きよう。リラックスして、笑顔で声をかけてみよう。
第十四回
2018-01-04
新年明けましておめでとうございます。
昨年も、市民の皆様方には温かいご支援ご協力を賜り、社協の事業推進にお力添えをいただきましたことに対しまして、改めて御礼を申し上げます。
さて、昨年一年を振り返ってみますと、社会福祉法の改正に伴う新定款の施行により、新たな役割を担う理事、評議員が選任され、社協の経営に携わっていただくことになりました。
また、10月には大幅な組織改革を行い、新しい組織により更なる経営改善に向けた取り組みをスタートしました。
さらに、平成30年5月の「会津若松市ボランティア学園」開校に向けた準備を進めてきました。現在、入学希望者の募集を行っておりますが、この事業が地域福祉の推進に欠かせないボランティアへの関心を高め、より良い活動に役立ってほしいと念願しております。
新しい年を迎え、心を新たにして、役職員一丸となり“挑戦・改革”に取り組んで参りたいと考えておりますので、本年もご支援ご協力をよろしくお願い申し上げます。
結びに、皆様にとってより良い年でありますよう念じまして、新年のご挨拶とさせていただきます。