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会長のつぶやき

会長 武藤淳一
 
【生年月日】1942年(昭和17年)6月15日
 
【住まい】福島県会津若松市
 
【家族構成】妻、長男夫婦、孫2人の6人家族
 
【本職】寺院住職
 
【経歴】大学卒業後、教職を経て住職に。PTA役員、民生児童委員等を経験。
 
【住職として伝えたいこと】
「家庭」「生活」―人間として何をすること(ところ)なのかを学び実践すること
 
【仕事をする上で気をつけていること】丁寧(心を込めて親切に対応すること)
 
【座右の銘】身自當之しんじとうし無有代者むうだいしゃ(仏教の言葉)
意味:人生の中で苦しいこと、悲しいことに出会っても、誰も代わってくれないし自ら引き受けて生きていく
【尊敬する人】親鸞
 
【最近読んだ本】天地明察
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第六十八回

2024-12-10
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今年もあとわずかとなりました。年末を迎えると皆一様に来し方を振り返り、喜んだり悲しんだりしながら年の暮を過ごし、あたふたと新しい年に思いをはせ、次の年が良い年になるようにと「縁起物」に願いを託して祈りを捧げます。

 この「縁起」という言葉は、釈尊(おしゃか様)が覚られた真理「縁起の理法」を指す言葉で、仏教の根本原理のことなのです。
 縁起とは「縁によって起こる」ということで、あらゆるもの(こと)はその物事が単独で成り立つことはあり得ず、すべてが関係性の中で存在しているということを意味しています。
 私たち一人ひとりも、もちろん関係性の中に生存しています。あらゆる物事は、すべてが関係し合い、補完(ほかん)し合い、相互に支え合って存在しているのです。私に関係ないものなどひとつもないのです。ことばを変えると、すべてはつながっているのです。私は私以外のすべてに支えられ、同時にすべてを支えているのです。
 しかし、関係性の中にあるということは、物事は必ずしも自分の思い通りには進まないことを意味します。すべては認識することのできない諸々(もろもろ)の縁(条件)によって、現在も未来も成り立つわけですから、何事も自分の都合よくなどなるはずがありません。それを「不如意(ふにょい:意の如くならず)」と言います。

 現代は「無痛(むつう)文化」とも言われ、苦痛の少ないことを価値と見ます。しかし共に生きるとは不如意を生きることです。摩擦(まさつ)も意見の違いもイヤなことも起こってきます。そこで自分の思いを通すことは、結局自他ともに苦しむ様相(ようそう)となっていきます。
 生きる中で、自分の都合の良い人と別れ(愛別離苦(あいべつりく)・愛するものと別れなければならない苦しみ)、都合の悪い人と会わなければなりません(怨憎会苦(おんぞうえく)・恨んだり憎んだりするものと会わなければならない苦しみ)。必ずしも求めた通りの結果にはなりません(求不得苦(ぐふとくく)・求めて得ざる苦しみ)。それが現実です。ならば目を逸(そ)らさないことです。「思い通りにはならないが、なるようにはなる」のです。

 私も年を重ねることで気付かされたことですが、人間は二つの知恵をいただいていると思います。
 一つは加齢とともに衰(おとろ)えていく知恵です。記憶に関することや、新しい物事に対応する知恵です。そこばかりを気にかけて嘆(なげ)きますが、もう一つの知恵があるようです。
 それは、加齢とともに深まっていく知恵です。不如意の現実を生き抜く中で、苦しみ、悩み、傷つき、考え、振り返り、自他を責めたりしながら深まっていくものの見方、受けとめ方、考え方などです。
 その中から私が私に生まれたこと、生きること、老いること、病(や)むこと、死ぬことなどを考え、夫婦とは、親子とは、自分とは、他者とは・・・等々の問いを常に抱え、折に触れて感じること、思いつくことなどを味わうことになります。
 不如意の現実をきちんと受け止めることが、目覚めのスタートです。思い通りにならない現実から逃避(とうひ)せず、そこで感じ考える、そのことが私を本当の私にしてくれるのでしょう。

第六十七回

2024-11-08
2024(令和6)年11月6日(水)付、毎日新聞社会面記事の全見出し語一覧

○強盗夫婦で「闇バイト」か
 横浜・国分寺 現金『回収役』疑い
○容疑者夫?防犯カメラに
○国分寺でも勧誘か 所沢の「リクルーター」
○葛飾の強盗致死 新たに23歳逮捕
○高齢女性狙い10億円被害
 カンボジア拠点特殊詐欺29道府県で
○危険運転致死争う姿勢
 大分194キロ死亡事故被告側 地裁初公判
○萩生田氏の秘書裏金不起訴不当 検察審査会
○国立循環器病研究センター(大阪府吹田市)の理事長が部下にパワハラ 大阪・異動迫る
○わいせつ容疑で市長を書類送検(沖縄・南城)

 このところ首都圏を中心に、相次ぐ強盗などの事件は、8月〜11月にかけて計245件に及び、その一覧表が同紙に掲載されていました。
 葛飾の事件で逮捕された23歳の容疑者は、「X(旧ツイッター)で『即日バイト』と検索し、ダイレクトメッセージを送った。人の家に入って物を取ってきてほしいと指示され、拒否したが脅された」という趣旨の供述をしているという。警視庁は「闇バイト」に応募したとみて、相次ぐ強盗などとの関連を調べている。

 若者が、安易に大金が入るという「闇バイト」の誘いに応じてしまい、犯罪に手を染めてしまうという事件の頻発(ひんぱつ)には、ただただ驚くばかりである。20代、30代の若者が、一瞬の気の迷い(?)から、自分の手で自らの一生に消し去ることのできない「キズ」をつけてしまい、その罪を背負ってその後の人生をどう生きていくのか、悔やんでも悔やみきれない思いであろうと思います。

 「懺悔(ざんげ)」「慚愧(ざんき)」という仏教の言葉があります。懺悔は一般に「ざんげ」と読まれていますが、仏教語の読みは「さんげ」で、「罪を自覚し、心から悔い改める」の意、慚愧は、「取り返しのつかないことをしたと強く悔やむとともに、自ら恥じる」という意味です。
 自分の犯した罪を認め、悔やんだり恥じたりするどころか、何とか罪を逃れるためにあらゆる手を使って言い逃れをしようとする気風が、今の社会を覆っているように思われます。
 多発する、詐欺・窃盗・強盗・傷害・殺人また各種のハラスメント・裏金問題などのあさましい事件は、私たちが人として本来身につけるべき、「懺悔」する心「慚愧」の心を見失ってしまったことにあるのではないかと思えてなりません。

廉恥(れんち) =(廉は、分限を知り利欲の念がない意)
   心が清らかで、恥じるべきことを知っていること
   (反対語 破廉恥(はれんち)=およそ恥ということを知らない意で、不正を行っても平気でいる様子)
潔(いさぎよ)い=未練がましくわが身の保身に囚われたりすることなく事に臨む心構えをいだく様子
このような言葉や心はもはや死語となってしまったのだろうか・・・

第六十六回

2024-10-02
 今年は新年早々大地震に見舞われ、あろうことか同じ地域で大洪水の被害を被(こうむ)るという、未曾有(みぞう)の大惨事が起こってしまいました。二つの大災害を受けた能登地方の方々にはお慰めする言葉もありません。ただそれぞれが出来る限りのことをして復興を願うのみです。

 近年の雨の降り方は、線状降水帯の発生による局地的な大雨により、各地に多大な被害をもたらすという特徴があるようです。
 私たちがより便利で快適な生活を限りなく追い求め、一部の国が豊かな暮らしを謳歌(おうか)するために大気を汚し自然を破壊し続けています。その結果としてもたらされた地球規模での気候変動や自然環境の変化が、地球上のあらゆる生き物の生存を危(あや)うくしている状況を作っているのでしょう。
 そのような危機的状況をよそに国際社会では、各国間の利害関係をめぐるエゴや主義の違いから、泥沼とも言える戦争・紛争が、いつ果てるともしれず続けられ、国民にはかり知れない苦痛と悲しみ、絶望感をもたらしています。

 『忿(こころのいかり)を絶(た)ち、瞋(おもえりのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。人皆、心有り。心各(おの)おの執(と)れること有。彼是(よみ)すれば則ち我は非(あしみ)す。我是(よみ)すれば則ち彼は非(あしみ)す。我、必ず聖に非ず。彼必ず愚(おろ)かなるに非(あら)ず。共にこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よく)・非(あしき)の理(ことわり)、詎(たれ)か能(よ)く定むべけん。相共に賢く愚かなること鐶(みみかね)の端(はし)無きが如し。是(これ)を以て、彼人(かれひと)、瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえ)りて我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖(いえど)も衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)え。』

【意訳】(心に起こる)気にそまないことを憤(いきどお)る心を抑(おさ)え、思い込みによる怒りを離れ、人のあやまちに腹を立ててはならない。人はそれぞれに思いや考えがある。人の心にはそれぞれに執着(しゅうちゃく・こだわり)がある。人を良し(正しい)とすれば自分の思いは悪し(誤り)となり、自分を良しとすれば人を悪しとする。自分はけっして聖人(間違いのない人間)ではない。相手もまた愚かな(間違いだけの)人間ではない。お互い是(良し〉・非(悪し)両方を持つ人間同士なのである。是非(善悪、良し悪し)の道理をどうして判定など出来ようか。共に賢く愚かであることは、鐶(かん・金属の丸い輪)の端(はし)がないようなものである。このことを心得て、人が腹を立てたとしても、我が身を振り返り過(あやま)ちがないかどうかを気にかけよ。自分が得心(とくしん)したとしても、周りの人と協調して行いなさい。

 この言葉は、聖徳太子の「十七条憲法、第十条」によるものですが、聞きなれない言葉だと思います。しかしこの教えは、国民不在の混迷する現代社会に一石を投ずる言葉ではないかと思われますので紹介します。
 聖徳太子は、高慢心(こうまんしん)を戒(いまし)め、人間はともどもに善悪、良し悪しを併(あわ)せ持つ人間であるということで「平等」なのであるという真理を説いておられます。
 私たちは、己に執(しゅう)することで相手を貶(おとし)めたり卑(いや)しめたり、時には排除しようとしたりします。お互いが「愚かさ」を謙虚(けんきょ)に認め「敬愛」の心で接したいものです。

『怨(うら)みは怨みによって止(や)むことはない。怨みを棄(す)ててこそ止む。』(釈尊の「前生物語」より)

第六十五回

2024-08-14
 長い間ご無沙汰をし大変申し訳ありませんでした。体調不良ではと心配して下さる方もおられましたが、別に健康を害したわけではありません。御心配をいただき有難うございました。

 10数日に及んだオリンピックの熱戦も、わが国史上最多のメダル獲得という晴れがましい結果を残して幕を閉じました。しかし現状は、世界の状況を色濃く反映し、多くの課題を浮き彫りにしました。
 中でも、特に近年大きな社会問題になっているネット交流サービス(SNS)での投稿のあり方です。強盗殺人の仲間集めの呼びかけ(それに応じる若者たち)、投資やロマンス詐欺(さぎ)、被災地での偽(にせ)情報、うその救援要請など、目を覆いたくなるあるいは耳を疑いたくなるような投稿に溢(あふ)れている有様です。

 今回のパリ大会は、「炎上五輪(えんじょうごりん)」などと呼ばれ、選手への「謝罪」要求や「誹諦(ひぼう)・中傷」といった的外(まとはず)れな投稿が広がっているという。結果を出せず一番悔(くや)しい思いをしているのは、数年の間苦悩に耐え、血の滲(にじ)むような練習を重ねてきた選手たちです。健闘及ぱず敗れてしまったことを、もし詫(わ)びるとすれば、それは支え続けたコーチや肉親、そして共に戦ってきたかけがえのない仲間たちに対してであろう。そして常に励まし応援してくれた人々には、心から「有難うございました」の一言で十分なのではないかと思います。

 批評(批判)と非難の区別がつかず、直感的な感情のおもむくままに反応してしまう、そういう無秩序な状態になってしまっているのだと思います。 文明の利器であるスマートフォンの操作についていけないのは、私たち高齢者。高性能の機器に心がついていけないのが若年層の人たちでしょうか。

第六十四回

2024-02-27
 私たちの日常の行為は、なにをきっかけとし、なにに支えられて実行されるのでしょうか。過去にも、また今現在も人に感動を与え、勇気づけるようなことを成し遂(と)げていく人がいます。
 夢や実現したいと思ったことを、どうしてもやり遂げたいという強い願いが、実現への強い力となっていきます。スポーツ・芸術・研究・仕事・趣味など、あらゆる営みのベースに「願い」があります。映画を観るにしても、コンサートで歌や音楽を聴くにしても、その製作に携(たずさ)わった人たちと、それを鑑賞する私の願いが交錯(こうさく)し共有(きょうゆう)されて感動を生むのでしょう。

 ある本の中で、こんな喩(たと)えを目にしました。
 お寿司屋さんに裕福(ゆうふく)そうな客が入り、板前さんに注文をしました。
「この店の寿司の一番高いものから順番に握ってくれ」。板前さんは上客の来店に喜んで、高級な食材を使った寿司を次々に握って出しました。客はそれを食べていくのですが、ある寿司は口に運ばず床に落としました。驚いた板前さんは、「もしお嫌いなものがありましたら、お好きなものだけ握らせていただきますのでおっしゃって下さい」。客は「握った分の金は払う。食べるか捨てるかは俺が決める」と言った。
 もし自分がその板前だったら、どんな気持ちでそれから握り続けるでしょうか。お寿司屋さんは、調理した寿司(製品)を提供してその対価を得れば商取引が成り立つということならば、握ったすし(商品)がどうなろうと、換金(かんきん)できれば商売成立ということなのでしょうか。

 私たちは、たとえ収入が確保されても、それだけで満足できるとは限りません。おそらく多くの板前さんは、食べる人の満足や笑顔を願って、早朝から食材の吟味(ぎんみ)、保管、組み合わせ、タイミングなど、可能な限り知恵と技術と心を込めて準備します。その結果のお寿司ということでしょう。
 つまり、あらゆる「つくられたもの」の背景には必ず「願い」があり、その願いが踏みにじられるとそのことに関わった人はもちろん、そうでなくても辛(つら)くなります。それは農作物も大量生産の工業製品も同様です。物が集まって世界を構成していると思いがちですが、実は「願い」が集まって世の中は成り立っているのです。
 また「願い」には「目前の願い」と「根本の願い」があります。つまり、本当に実現したいことのためには、今、目の前の様々な誘惑や欲求(よっきゅう)は我慢できるのです。その根本の願いが本当にしっかりとあれば、少々嫌(いや)なこともできるし、やりたいこともコントロールできるでしょう。「願い」が明確であれば、決断ができ、実行の、また我慢の勇気が出てきます。
 私たちが、出来そうもないとやる前から尻込(しりご)みするのは、実は願いが本物でないか弱いかのどちらかなのでしょう。

 私は今、人間としてこの私として生まれ、与えられた環境条件の中で、さまざまな人や物とつながりながら生きています。この私にはどんな願いがかけられているのでしょうか。そして、私自身が根本のところで、この私自身に本当に願っていることは何なのでしょうか。願いを感じ、願いに生きる人でありたいと思っています。

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